みぎわにたゆたえば 毎日何もすることが無いと、ボヤッとした感覚がまとわりついて、全てにおいて現実味も興奮も無くなってくる。 今日が何月何日であるかというのも、今の僕の生活には無関係であるのではっきりとは認識しなくなってきた。とりあえず外から聞こえるようになってきた蝉の声と、じっとりとまとわりつくような空気でおおよその季節を把握しているくらいである。 僕の部屋にはテレビは無く、外界との接点は唯一、パソコンとスマホ程度だ。部屋のドアから外には必要以上には出ない。 階下には母さんがいるが、食事の時くらいしか顔を合わせない。自堕落生活を続ける僕に説教する気も無くしたのか、腫物に触るようなやんわりとした態度で一言二言話しかけるくらいだ。 まあ、僕が好きでこんな状況になったのではないことを理解してくれて、僕の気が済むまではそっとしておいてあげようと言ってくれるようになった分だけ、父さんよりはありがたい。 このまま何かがあって僕がこの部屋の中で死んだら、どのくらいの人間が悲しんでくれるのかな。 ベッドに寝転びながらふとそんなことを思った。僕とつながりがある人間とは縁遠くなってきたから、あんまり多くの人を悲しませなくて済むかもしれない。僕が死んだことを知らなければ、その人の中で僕は生きているし、僕の存在すら知らなければ、最初からその人の中に僕は存在しない。 はあ……こんな生活を続けていてはいけないとはわかっているのに。 それでも一度落ち込んだ気持ちを奮い立たせるには刺激する何かが足りなかった。 とりあえず、外界から遮断された空間で、小さな刺激を求めて時折スマホに手を伸ばす。 閲覧するのは、ニュースサイトだったり、某掲示板だったり、おなじみの廃墟サイト『RUINS』だったり、……アダルトサイトだったり……、まあ、気が向けば何だって見た。 そうやって色々とリンクを踏んで見ていくうちに、やや悪趣味な事柄をまとめたサイトに行きついた。 人は負の感情に自ら望んで浸りにいくことがある。 僕がそのサイトを見ようと思ったのも、自分の中のほんの小さな好奇心だった。 ……ノックが。 僕の部屋のドアをノックする音がする。 母さんか? 母さんだったら、僕が行くまで勝手にドアを開けることはない。父さんならわからないが、こんな昼間に父さんがいるはずがない。 僕は怠い体を起こしてドアを開けに行った。 ノブに手を伸ばして軽く捻ると、外から強い力で引っ張られた。 「ノヴシゲさーん!」 「わあああ!」 大きな声を張り上げられて、僕は思わずのけぞった。 廊下に立っていたのは……久しぶりに会うので一瞬誰かわからなかったが、『RUINS』のオフ会で出会ったユリカちゃん、海清さん、Χくんの3人だった。意外な人達の組み合わせであり、彼女達が僕の家を訪れるのも意外だった。 「ユリカちゃん……、どうしてここに……?」 僕は部屋着にしているジャージにTシャツ、寝起きのボサボサ頭だ。しかも部屋はものすごく散らかっている。そんな部屋や僕の姿を見られるのを一瞬恥ずかしいと思ったが、男であるΧくんをはじめ、彼氏持ちのユリカちゃんや弟のいる海清さんならひょっとして理解してくれるんじゃないかと思って、ひとまず冷静になった。 「やだなあ、ノヴシゲさんが呼んでくれたんじゃないですかー」 「……え?」 「呼んだ張本人なんですから、ちゃんと部屋に入れてくださいね? ボクらが座るスペースくらいはあるでしょう?」 以前より少し大人びて、体の節が目立ってきた様子のΧくんがそう言った。相変わらず男にしては可愛らしい顔はしているけど。 ……そうか、僕が呼んだのか。 僕は床に転がるものを寄せて3人の座る場所を確保した。3人が座ると僕の居場所が無くなるので、僕はさっきまで寝ていたベッドに腰掛けた。 「ふふ、男の子らしい部屋ね、ノヴシゲくんの部屋って」 もう30近いはずだが、相変わらず綺麗な海清さんにそう言われると、恥ずかしさとは別の感情が僕を襲う。 「男がみんなこんな部屋だとは思わないで下さいね。ボクの部屋はちゃんと片付いてますし、こんなに臭くないです」 Χくんも相変わらずの毒舌で僕を刺してきた。 「臭いかな……?」 「臭いです。牛乳拭いてそのまま放置した雑巾みたいな臭いがしますよ」 「そ、そんなに臭いか? 一応、布団とかはたまに洗ってもらってるんだけど……」 僕はクンクンと自分の体を嗅いでみた。臭いというものは慣れてしまうものなので、僕が気づかないうちに臭っていたとしても不思議ではない。 ……そういえば、少し腐ったようなツンとした臭いや、何かが焦げたような臭いがするような気がする。 僕はエアコンをつけたまま、窓を開けることにした。 「ところで、何をしに僕の家に来たんですか?」 僕は3人に背を向けたまま言った。 「あら、ノヴシゲくんが呼んだからって言ったじゃない」 海清さんの声が背中に触れる。 「そうですけど……、僕、みなさんに約束し」 「一磋もね、私を呼んだのよ。店を追い出されたからって」 僕の言葉は海清さんのやや強い調子の声に掻き消された。 「待合旅館を転々と……。行き場のない私達だったけど、それでも幸せだったの。愛していたから」 ……。 海清さんは何を言っているのだろうか。僕の記憶違いでなければ、一磋さんは弟じゃなかったか? 『愛していた』ってどういうことだ? 海清さんは、まるで恋人のように一磋さんを語る。 「あの……一磋さんって弟さんですよね?」 僕がおずおずと聞くと、海清さんは目を丸くした。 「何を言ってるの? 一磋が弟のはずがないじゃない」 「……はあ」 僕の記憶違いだったようだ。 「あたしの愛した人にも奥さんがいたけど、海清さんもなんですね~。好きになっちゃったらどうしようもないですよねっ」 「ボクは、不倫はあまり感心しませんね。遺産相続の時に揉める原因になりますし」 僕を置いてけぼりにして3人は勝手に話を進めていく。僕は振り返って3人に向き直った。3人はニコニコとしていた。 「あの人はね、首を絞められるのが好きだったの。そうすることでより快感を得られるんだって」 「マゾですか。意外と一磋さんのような、一見たくましそうな人がマゾだったりするんですよね」 「あはは、あたしも一磋さんいじめてみたかったなあ~」 「でもね、ある時、締めすぎてしまったの。ううん、わざと締めたのよ。あの人は世間的には私のものではなかったから。こうすれば、私のものになると思って」 海清さんの手が彼女の持っていたカバンの中に伸びる。 彼女は、毬のような大きさの、紙に包まれた何かを取り出した。 「……あの人を殺して、私はとても楽になったわ。重荷が私の肩から持ち上げられたみたいに」 その紙は、赤黒く汚れている。海清さんはそれを愛おしそうに頬ずりした。 「これは、私の一番かわいい大事なもの……。手放したくないの」 うわあ……。 僕は、女は怖いなと思った。 「あたしもそうやって絞められたのかなあ。あたしのこともかわいいと思って、首を持っていったのかなあ」 ユリカちゃんが憂いを帯びた表情で海清さんの手の中のものを見る。 「ユリカちゃん……!?」 ユリカちゃんの服の胸元が、服の内側からにじみ出したように血で赤く染まっていた。首からも血が流れている。いや、まるで切断された首が元の位置に乗っけてあるだけのように見える……。ユリカちゃんはそんな状態でケタケタと愛らしく笑う。 「お二人はそうやって、愛することも愛されることも出来てうらやましいですよ。ボクはそういうものを感じなかったから、誰でも良かったんです。 誰でも良かったけど、結局27人も襲っておいて殺すまでに至らなかったのは本当に甘かったと思います。怪我もしてしまったし」 Χくんは包帯の巻かれた指先をかざした。 はあ……。 3人は苦労話をしに来たのだろうか。 僕は悲惨だな、と思うだけで特に同情する気持ちは起きない。彼女達の存在は僕からは遠すぎた。 もっと近い存在なら、同情もするのかもしれない。 たとえば……ネズやキリコなら。 「あ」 僕は立ち上がった。 ……僕はふと思い出したのだ。 「僕は……キリコと、ネズのところにいかなくちゃいけないんだ」 3人は僕を見ると、顔を見合わせてまたニコニコと笑い出した。 「約束を忘れちゃダメですよ~」 「早く行ってください。ボクらのことはいいですから」 「また遊びに来るから、いつでも呼んでね?」 僕はジャージ姿のまま外に出た。 外はジリジリとした太陽の光が照りつけて暑い。暑い、というより熱い。そして喉の奥まで一気に流れ込んでくる湿気。 こんなところで5分も歩いたらすぐに喉が渇いてしまうだろう。 僕は自分が何も持たずに出てきてしまったことに今更ながら気づいた。慌ててポケットをまさぐると、100円玉が一枚だけ入っていた。これではペットボトルも買えない。 とりあえず僕は目についたコンビニに入って、パックのジュースを掴んでレジに持って行った。 「あれ? ノヴシゲさんじゃないっすか!」 レジの中に立っていた、不自然に灰色に染められた頭……FMSくんだった。 「ども! お久しぶりっすね」 「ここでバイトしてたのか」 「うっす。あ、これっすね。82円になりまーす。Tポイントカードはお持…、あっ…、100円からだったっすね」 「おいおい……、ちゃんとやれてるのかよ?」 「あー、まだここ入って3日目なんすよ。100円以下の会計って少ないですし」 「……ちょっとしか買わなくて悪かったな」 「ところで、ノヴシゲさんどっか行くんすか? キャリーバッグなんか持って」 FMSくんに指摘されてふと脇を見ると、僕のキャリーバッグがあった。卒業旅行でタイに行った時のステッカーもそのままだ。タイは最高に面白かった。 「ええと……これから飛行機に乗るんだよ。ネズ達と」 そうだそうだ。 僕はまた、ネズやキリコと…近遺研のみんなと一緒に、飛行機に乗らなければならないんだ。 「飛行機っすか! いいっすね! 空と海って、男のロマンが詰まってますよね!」 飛行機と聞いて、FMSくんの顔が綻んだ。あれ、こいつこんなに飛行機好きだったのか。 僕の顔を見て察したFMSくんは、バーコードリーダーを持ったまま答えた。 「あー、実はっすね、実家から軍港が見下ろせたんっすよ。だから、ガキん時から海軍に憧れてたんすよね。 オレ、長男だったけど、デキが悪かったから。家継ぐのはちょっと重荷だったんすよ。妹がしっかりした男連れてくればそれでいいかなっつって。 んで、志願したんすよ。頭悪いなりに頑張って覚えたんすよ、操縦。訓練では殴られることもあったけど褒められることも結構あって」 「……へえ」 「でも駄目でした。オレみたいなバカが花咲かせられるほど甘くなかったっすよ。 届かなかったんす。目の前に見えてるのに、あとちょっと届かなかったんす。あとはもう、一気に真っ暗で。 あっ、いらっしゃいませー」 僕の後ろに他の客がいたので、FMSくんはその相手を始めてしまった。見ればいつの間にか結構な行列だ。 僕は邪魔にならないようにFMSくんと目を合わせて軽く会釈だけするとコンビニを後にした。 さて、飛行機……とは言ったが、一体どこの空港から乗るんだったか。 どこで待ち合わせしていただろうか。 「羽田にいくのかい?」 不意に声を掛けられて振り返る。 炎天下の交番で、暑そうにしている制服姿の……ペケ蔵さん? 「え? あ、そうです。羽田空港に行かなきゃいけないんです」 ペケ蔵さん、いつの間に交番勤務になったんだろう。それはともかく、僕は思っていたことを口に出してしまっていたようだ。 ペケ蔵さんは帽子を深くかぶり直して僕の背後を指差した。 「あの先にタクシー乗り場があるから、そこからタクシーに乗るといいよ。電車の方は人身事故で止まってるみたいだし」 「人身事故ですか」 「うん。自分から飛び込んだみたいだ。ツイッターで近くの客が撮った壊れた車体の画像も回っていたよ」 ……おいおい、ペケ蔵さん、勤務中にツイッターやってるのかよ。 僕はふと、自分のスマホが軽く震えたことに気付いた。画面を見ると、ネズからの着信通知だ。そこには顔文字も絵文字も無く、ただあっさりと一言だけ書いてあった。 『来るな』 ……来るな? 僕達は待ち合わせしているはずなのに、来るなとはどういうことだろう。ネズと喧嘩なんかしていないし、……もしやネズに何かあったんだろうか。 「自分から死ぬなんて、本当に馬鹿だよなあ。生きたくても生きられなかった人もいるのに。 ……本当に寒くて、今日とは正反対の雪の日だった。もう足の指の先が冷たくなってて。 突入命令が出た時、ちょっと足がもつれちゃってさ。盾も二枚持たされてたし歩きにくかったし。でも、絶対に捕まえてやるんだって、奮起してたんだよ。 そしたら、目の前で中隊長まで撃たれてさ。目から血を流す中隊長を見て思ったよ。『ああ、イデオロギーってのはなんて厄介なんだ』って。奴らの頭にも銃弾を撃ち込んでやりたいって。 本気で人を殺してやりたいなんて思ったのは、後にも先にもこの時だけだったね。こっちは隊長も中隊長もやられたんだ。9機になんかやらせたくない。この手であいつらをぶち殺して引き裂いてやるって。 ……そんな風に冷静を欠いちゃったから、撤退させられたんだけどさ」 「……はあ。警察も頑張った時があったんですねえ」 「結局1人助けるのに2人死んだ。民間人も含めたら3人だ。怪我人はどれだけいたか数えられないくらいだった。隊長は生きて、娘さん達の行く末を見たかったと思うよ。覚悟はあったろうけど、無念だったろうと思う。 そんな風に消えていく命もあるのに、何があったのか知らないけど、命を投げ出して、他の人に迷惑をかけるなんてさ。本当に馬鹿みたいだ」 「あの、僕急いでるんです」 「ああ、ごめんね。引き留めて悪かったね」 「ツイッターもほどほどにしといた方がいいですよ」 「あはは、実は署の公式アカウントを任されてるんだ」 「はあ、そうなんですか。じゃあ今度ペケ蔵さんのアカウント探してみます」 「フォロー頼むよ」 僕は敬礼するペケ蔵さんを尻目に、タクシー乗り場へと急いだ。 タクシー乗り場には一台だけタクシーが停まっていた。 僕が手を挙げ、自動でドアが開いた後部座席に乗り込もうとすると、同じくそこに乗り込もうとする大きな人影。 「おっとぅ! これは、ノヴシゲくんではありませんか」 ……ああ、穴山さんじゃないか。 「悪いですけどね、このタクシーは譲れませんよ。ボクはこれから大井競馬場に行かねばならんのですっ」 「ああ……ええと、僕は羽田空港に……。あの、僕も急いでいるんです」 「羽田と大井競馬場なら同じ方向ですから、一緒に乗り合わせればいいではないですか」 タクシーの運転手が振り向いた。 「あ! 満月さん」 「どーもー、お久しぶりでございます」 相変わらずのマスクとサングラスだ。車内なのに目深にかぶったフードも健在だ。 「お急ぎなんでしょう? 出来うる限り飛ばしますから、早く乗って下さい」 「そうですな。確かに同じ方向です。ノヴシゲくん、ご一緒させて頂きますぞ」 「あ、はい」 僕らを乗せたタクシーは、やがて首都高に入った。 「満月さん、タクシードライバーだったんですね」 「ははは、これは趣味ですよ趣味。趣味で休日に個人タクシーやってるんです」 「え!? 趣味で個人タクシー!? じ、じゃあ、本業は何をやってらっしゃるんですか?」 「それは、ヒ・ミ・ツ★です」 ……本当に謎だなこの人。 「大井までどのくらいで着きますかねえ」 穴山さんが満月さんのヘッドレストに手を掛けながら聞いた。 「この調子だと、遅くとも小一時間ってところでしょうか」 「ノヴシゲくんも急いでるんでしょう? 飛行機は何時ですかな?」 「あ、えっと……。わからないんですけど、とりあえず急いでます」 曖昧な言い方をしてしまって、何か突っ込まれるかな……と思ったが、2人はそれ以上のことは聞いてこなかった。 よかった……僕自身が自分の行動がよくわからない。 なんだかひどく曖昧で、何をするのにも実感が湧いてこない。 だが……それは今までの生活の延長にも思えた。何をするわけでもなく、ただ茫然と食っちゃ寝て過ごし、同じことを繰り返す毎日の。そうやって過ごしてきたこれまでを考えれば、こうして遠出している今はよほど刺激的な『延長』だ。 僕はふと思い出して、さっきコンビニで買ったジュースを飲み始めた。色んな人と再会したせいで忘れてしまっていた。 僕がジュポッとストローを啜ると、穴山さんがじっと僕の方を見ていることに気付いた。 ……ジュース、欲しいんだろうか。喉でも乾いているんだろうか。 「……少し飲みますか?」 おっさんと間接キスはちょっと気持ちが悪いなと感じつつも、熱中症になられても困るので一応聞いてみた。 「おおっ、気持ちはありがたいですが大丈夫ですよ。ボクね、前に人からもらって口にしたものでとんでもないことになったので、人からもらったものは食べないことにしてるんですよ」 「僕は毒なんか盛りませんよ。さっきコンビニで買ったばかりですし」 僕はちょっと気分を悪くしたが、冗談じみた声で返した。 「いやあ、あの時もね、信用してしまったんですよ。信用してしまったのが悪かった。 行員や用務員一家には悪いことしました。坊やまで巻き込んでしまって。ボクも一緒に死んでしまえば良かったんです。毒の地獄のような苦しみから解放されたと思ったら、非難の嵐で。 当たり前ですな。ボクが安易に受け取ってしまったせいで、12人も死んだ」 ……何か聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。変わり者だが底抜けに明るそうな穴山さんが、表情を硬くしてしまった。 「永田町です」 満月さんが、前を向いたままそう言った。高架高速道路の上から見ると、ビルの立ち並ぶ東京でも空が少し広く感じられる。 「ワタクシはですね、ガチャンガチャンとガラスが割れる音で目が覚めました。 変な臭いが立ち込めていましてね。ドアを開けたら、廊下が火の海だったんです。誰かが叫んでる声が聞こえたんですけど、なんて言っているのかわかりませんでした。 ワタクシは廊下には出られないと思って、窓際に行きましたけど、もう熱くて熱くて。我慢できないほどの熱風が吹きつけてくるんですよ。窓のサッシもフライパンのようで。 そうこうしているうちに火が迫ってきまして。このまま飛び降りてしまおうか、本気で考えたんですよ。飛び降りて死ぬか、焼け死ぬかという状況でしたから。最終的には……」 そこまで言いかけて、満月さんは口をつぐんだ。僕は、満月さんのマスクとサングラスの隙間から、爛れた皮膚が覗いているのを見つけてしまった。 ひとしきり黙り込むと、満月さんは再び口を開いた。 「人の命より利益を優先する。そんなことをしていると、いつか大きな悲劇に見舞われてしまうものです。人は大それたことをしようと前だけを見ますが、肝心の足場をいい加減にしていることが多い。歩みはゆっくりでいいものを。 外見だけ立派なホテルも、中身はスカスカだったと言うことです」 「嫌ですなあ。発展することは良いことのようですが、我々はそれに伴って大事なものを置いてきてしまったような気がする。このようなビルの群れも、所詮はバベルの塔なのかもしれませんなあ」 ……これは所謂、懐古厨というやつだろうか。面倒くさい話になってきた。 その後も2人の『昔は良かった』話は穴山さんを降ろすまで続いた。 穴山さんを降ろすと、途端に車内は静かになった。ふと、また着信があることに気付く。 『来るなと言ったのに、どうして聞いてくれないんだ』 ネズだ……。 僕は、『どうして?行っちゃいけない理由はなんだよ』と返した。どのみちもうすぐ着くのだ。理由は直接聞けばいい。 空港に着くと、僕は満月さんにお礼を言って車から離れた。タクシー代は大井競馬場までの分を穴山さんからもらったからいい、とサービスしてくれた。謎な人物だが太っ腹だ。 「ノヴシゲ、久しぶり!」 広い空港内で苦も無くキリコ達に出会うことが出来た。よく出来過ぎていて夢を見ているようだ。 久しぶりに見るキリコは大人っぽくなっていて眩しい。隣にいるネズも、端正な顔だちは前より少しやつれて引き締まって見えた。2年間で歳を取ったということか。 「ネズ、さっきのメールはなんだったんだ?」 「……メール?」 ネズは相変わらずの眠たそうな声で言った。 「『来るな』ってやつ……」 「……知らないぞ。なんのことだ?」 知らない? そんなはずがないだろう……と思ったが、とりあえず、キリコが時間が無いと言うので急ぎ飛行機に乗り込むことになった。 途中、ブルブルとスマホが震えているのを感じたが、久しぶりに会った2人との会話が弾んでいたので特に見ることもなかった。 座席に座り、シートベルトを着用する。飛行機は久しぶりだ。 「大阪に着いたら、まずどこに行こうか?」 「大阪……。大阪に行くんだっけ?」 ネズの言葉に僕が返すと、キリコもネズも意外そうな顔をした。 「やだノヴシゲ、自分が『大阪に行きたい』って言ったんじゃない」 「え? そうだっけ?」 「……急に言い出すから急いでチケット取ったんだぞ。このお盆シーズンに」 そうだったろうか……。 よくわからない。 なんだか頭がぼーっとする。 飛行機は離陸体制に入ったようだった。 キリコとネズは2人で他愛もない話をしている。 僕はふと、機内モードにしようかとスマホを手に取った。 着信メッセージがあった。ネズからだ……。 僕はネズを見たが、ネズはキリコとしゃべったままだ。 そんな2人をよそに、メッセージを開封する。 『もう手遅れだ。お前の中で、俺達は死ぬ。そしてお前も』 ……なんだ? 僕はネズに問いかけようかと思ったが、表だって聞いたところで先ほどのようにとぼけられそうだ。僕は、メッセージに返信することにした。 『どういうことなんだ? 僕が何をしたっていうんだ?』 僕が返信すると、飛行機は離陸を始めた。体がぐっとシートに抑えつけられる。 ……着信があった。 ネズは……スマホをいじった様子はない。 ではこれは、ネズからのメッセージではないのか? ……だが送り主のところには相変わらずネズの名前がある。 『世界は認識の数だけ存在する。 お前にとってはほんの些細な好奇心で覗いた事件史でも、お前がそれを読んで知ってしまった時点で、お前の世界の中に俺達が生まれる。 そして文章の通り、悲惨な目に遭うことになり苦しみを味わう』 『何をわけわからないことを言ってるんだ? 世界がたくさんあるって? 厨二乙wwwww』 僕がすかさず返信を返すと、チャットのように素早く返事が来た。 隣のネズはやはり何もいじってはいない。このメッセージは、一体誰からのものなんだ……? 『お前が見ている世界が他人の見ている世界と絶対同じだなどとは言えないだろう。他人にはなれないから。 お前が見ている≪黄色≫が他の人間の見ている≪黄色≫と同じとは限らないし、それを同じものだと証明する術もない。だから世界は、それを認識している生き物の数だけ存在する。 お前がこれらの、生まれる前の事件史とされるものを知ったのは、誰かが書いてウェブ上に載せたものをお前が読んだからだ。その瞬間に、お前の中で生まれた認識を世界と表すなら、今のこれがそうだ。 そしてお前は、刺激も無く目的も無く、現実と空想との境界が曖昧な状態で、お前の中で事実と認識したこの世界に迷い込んだ。 事件史の登場人物達は、お前がこれらの事件を認識したことで、お前の世界の中でその苦しみを味わうこととなった。これは、その登場人物達の復讐ともいえるかもしれない。 今、飛行機に乗っている≪これ≫は、お前にとっては既に現実だ』 僕は、混乱した。 海清さん、ユリカちゃん、Χくん、FMSくん、ペケ蔵さん、穴山さん、満月さん、そして……キリコとネズの2人……。 愛する人の一部を愛した女…… 首を奪われた少女…… 27人を襲った少年…… 届かなかった飛行機…… 雪の中……イデオロギー…… 毒を飲まされた行員…… 永田町のホテル火災…… ジェット機、大阪行き、お盆……うだるように暑い夏…… ああ、僕は、とんでもないものに迷い込んだ。僕の幼稚な好奇心が彼らを生み出してしまった。彼らの苦しみも考えずに。空虚な毎日で、ほんの些細な刺激を求めて。 このままではいけない。この飛行機がこの後どうなるか、僕は先ほど『認識』したではないか。 「降ろしてください!」 僕はシートベルトを外して立ち上がった。周りの人達が何事かと僕を見る。 「……ノヴシゲ?」 「何をしてるのノヴシゲッ…。恥ずかしいからやめてよ…」 キリコが恥ずかしそうに僕の服を引っ張った。 「降ろしてください! 今すぐ羽田に戻ってください!」 「ねえ、ほんとに、やめてよ。落ち着いてってば!」 「ノヴシゲ、立ち上がるのは危険だぞ。とりあえず座……おい!」 僕はネズの抑止を振り切った。 通路に出て、コクピットに入ろうと先頭を向いたところで、 僕の背後でパーンと、高く弾けるような音がした。 ああ、願わくば、安らかであれと 僕はキリコとネズの手を取って、泣いた。 PR