時間を飲むもの ※近遺研時代のお話です その夜は何故か寝付けなくて、何度も寝返りを打っていた……。 外も比較的静かで、枕元の4個の目覚まし時計の秒針がカチカチ言う音だけをずっと聞いてたんだ。 早く寝付きたかったから、とりあえず頭の中で稲の数を数え始めた。 そのまま30分くらいは過ごしたな。稲の数は912本まで数えた。 そこで、ふと気が付いたんだ……。秒針の音が止んでいることに。 俺は電池が切れたのかと思って起き上がって目覚まし時計の一つを手に取った。やっぱり秒針が止まっていた。だが、不思議なことに他の3つも同様に秒針が止まっていたんだ。 同時に電池が切れるはずがない。俺は、何かが起きているんじゃないかという予感がして、ベッドから起き上がった。 とりあえずテレビでも付けてみようかと思ったら、付かないんだ。部屋の電気も同じだった。 停電かとも思ったが、窓から見える外の明かりは付いたままだった。だが、信号機の色は、赤からずっと変わらないように思えた。 それを確認する為に、俺はベランダに出てみた。窓はスムーズに開いた。 そこで、びっくりするような光景を見たんだ。 外の道路上の車は、全て止まっていた。それどころか、歩道を歩いている中年男性も、右足を前に出す歩く姿勢の途中で固まっていたんだ。 さながら、時が止まった世界だ。動的な姿勢をしているのに、動を感じない……。ベクシンスキーの絵みたいな静寂と退廃を感じる空間だった。 どうしてこんなことになっているんだ……? 混乱する俺の目に、唯一動くものが映った。 アパートの前の道路の向こうから、腰をかがめた丸い背中の人物がこちらの方へ向かって歩いてきていた。一歩一歩の歩幅が狭いので、ゆっくり、ゆっくりとだが、確実に俺のアパートへ近づいてくる。 ぞっとするものを感じた俺は、部屋の中に戻ろうと思った。 しかしちょうどその時、街灯の明かりの下に入ったその人物の格好が見て取れた。 顔は覆っているフードのようなもので見えなかったが、全身が赤黒い汚れで汚れていた。そしてその手には、街灯の光を受けて光る……草刈り鎌があった。 思わず驚きの声を挙げてしまった俺に気付いたその人物は、俺の方に顔を向けた。 「■△×○▽■◎!!」 そいつは俺に何かを言った。 何を言ったかはわからない。顔も見たはずだったが、今は覚えていない。 気が付いたら朝だったんだ。目覚まし時計は全部いつも通りに動いていた……。 「そりゃあ、夢だよ! 夢!」 赤い顔のノブユキがネズの肩をバンバンと叩く。ネズは黙々とビールを飲んでいた。 ネズの話の要点をまとめると、寝ようと思ったら時間が止まった世界になって、その中で唯一動ける不気味な何者かと目が合った、というような話になるが、確かにノブユキの言う通り夢としか思えない。大真面目で話すから、ノブユキのように笑い飛ばすことに一瞬躊躇ったけど。 大助は手元のビールを開け、ネズに手渡しながら言った。 「珍しくネズが長々としゃべるからどんな話かと思いきや、夢の話か。まあ、実際自分がそんな夢みたらおっかねえかもしれないけどさ」 「……夢じゃない」 ネズはいつものように落ち着いて否定したが、そんなはずがない。 「時間が止まるわけないじゃないか。AVじゃあるまいし」 僕がついそう言うと、キリコと小松の2人が冷たい目線を僕にくれた。 「信繁……なんでそこで一番にAVが出てくるの?」 「あ、いや、わかりやすいかと思って」 キリコに問い詰められてついそんな言い訳をしてしまった。何がわかりやすいのかさっぱりだ。ああ、女子2人の目が痛い……。 「そうだよな! ネズ、なんでそこで女の子のところに行かなかったんだよ! もったいねーな」 お調子者のノブユキは更にその話を広げようとしてくる。 「……。……そんなこと全然思いつかなかった……」 ネズは大助から渡されたビールを一気に煽った。目がトロンとして半開きになっている。 「根津くんはそんなもの観ないもんね! やっぱりイケメンは違うよねー」 小松が言うと、ノブユキはむっとした顔で反論した。 「それは違うぞ。どんなイケメンだろうがAVを観ない男はいない! ネズは信繁が大好きだからちょっと変わってるだけだ!」 僕はブッとビールを噴き出した。 「何でそこで僕が出てくるんだよ!」 あああああああビールの炭酸が鼻に逆流ううぅぅぅぅぅうう!! 痛い! 痛すぎる!! 僕は悶絶しながら咳込んだ。 「……」 おいっ……! ネズも顔を赤らめるなよアホがッ!! 「大丈夫か、信繁?」 大助だけが僕を気遣ってくれた。キリコも怪訝とした顔のまま僕とネズを交互に見ているだけだ。 僕らは、近遺研のメンバーで群馬県の廃ホテルを見に行った後、部長のネズの部屋で撮ってきた写真を見比べながら飲み明かしていた。ノブユキが居酒屋に行く金が無いとぼやいたからである。 ちなみに今のメンバーは同い年のこの6人だけである。ちょっと前までマサユキという奴がいたが、無理矢理シフトを入れられるブラックバイトに引っかかりこちらの活動には出られなくなったので、代わりに双子の弟のこのお調子者のノブユキが来るようになった。大助だけは一浪なので一学年下になるが、今年僕らが卒業してしまったら存続の危機だ。まあ新入生を入れられず解散になってもそれはそれで……というマッタリした雰囲気ではあるのだが、先輩達に申し訳ないような気がしないでもない。 ようやくビール逆流の苦しみから解放されてきたのでちらっと時計を見た。10時を回っている。明日は月曜日だしそろそろ解散した方がいいかもしれない。 「んじゃ、俺達はそろそろ帰るわ」 と、思っていた矢先にノブユキが立ち上がった。それに合わせるように自然と小松も立ち上がる。なんだかんだ言ってこいつらはデキているのである。非常に腹立たしいのである。帰るとか言いつつ解散した後は2人でどっかにバックレる気マンマンである。 「じゃあ、俺も帰るわ。俺ん家の近くはバス無くなるの早いし」 大助も立ち上がった。 「信繁とキリコはどうする?」 さて、僕も帰った方がいいだろう。と、思ったのだが……。 「わたしはもう少し飲んでくね。ネズ、いいでしょ?」 「……ああ」 キリコが意外に粘るので、このまま帰ってはいけないような気がした。僕が帰ったらネズとキリコが2人きりである。いけない。それはいけないであろう。ネズはもてるが女の子に関しては朴念仁である。それでも酔った2人に間違いが起きないとは言いきれない。 「じ、じゃあ僕ももう少し残るよ!」 近遺研からこれ以上リア充を出すまいと、僕も粘ることにした。そう発言してから、もしかして既にキリコとネズがデキていたとしたら僕は完全なるオジャマ虫だったのでは……?と不安になったが、キリコが嬉しそうに笑顔を返してきたので少し安心した。 ノブユキと小松、大助の3人がいなくなると、ネズの部屋は急に広くなったように感じられた。 「……ねえ、そういえばこの前、新宿で満月さんにバッタリ会ったの」 満月さんを知るのが僕らだけだからか、キリコは3人になった途端にそう言い出した。 「へえ、満月さんってこっちに住んでる人だったんだ」 「あ、そこまでは聞いてなかったけど……。ほら、あの格好でしょ? お巡りさんに囲まれて困ってたみたいなの。だからわたし、この人は怪しい人ではないですって言ってあげたの」 「ああ、あの格好じゃなあ……」 納得と言えば納得なのだが。キリコは話を続けた。 「その後、お巡りさんがとりあえず身分証明書を見せてくれって満月さんに言ったのね。で、満月さんが……わたしはよく見えなかったんだけど、免許証か何かを見せたの。 そしたらね、急にお巡りさん達が顔色変えて、『お役目、ご苦労様です!』って敬礼して去っていったの! わたしビックリしちゃって。満月さんに、『お仕事、何をされているんですか?』って聞いたら、『公務員……みたいなものですよ、フフ』って笑って人ごみの中に入ってっちゃったんだよね……。本当にあの人って謎が多いね……」 「なんだよそれ……。満月さんってお巡りさんがビビるような立場の人なのかよ……」 「……。……ペケ蔵さんにその身分証を見せたら、満月さんの正体がわかるのかな……」 そんな風に楽しく白寿島に行った時のメンバーの話をしていたら、あっという間に30分が過ぎていた。 「キリコ、そろそろもう帰った方がいいんじゃないか?」 女の子だし、あまり遅く帰すわけにはいかないだろう。もちろん出来るだけ送って行ってあげるつもりではいるが。 僕がそう言うと、キリコはちょっと首を傾げたのちにネズに向かって言った。 「ねえ、ネズ。明日1限からなんだけど、泊まっていっちゃダメ? ネズの家からの方が近いし」 「え!?」 キリコの大胆発言に僕は驚いて声を出してしまった。当のネズは酔って真っ赤な顔をしたまま表情を変えなかった。 「……いいぞ」 良くないだろ! 「いやいやいや、それはちょっと……まずいだろ! ワンルームに男女2人きりで夜を過ごすというのはその、インドにおけるカーマ・スートラを教義とした……」 僕が慌ててよくわからないことを口走ると、キリコはにっこり微笑んだ。 「ネズと2人きりが駄目なら、信繁も泊まっていけばいいじゃない」 「……え?」 「……。……俺は一向に構わないぞ。狭い部屋だし客用の布団は一式しかないが、それでもいいなら」 な、なんだっとぅええええええ!? い、い、一式の布団でキリコと……!? そうだ、その方がいいな! キリコとネズの2人きりで間違いがあったら困るもんな! 下着の着替えなんてコンビニでも手に入るし、それでいいな! うん! 「じゃ、じゃあ、僕も泊まっていくよ!」 僕は固くこぶしを握り締めて答えた。 ……。 ……。 ……何故、僕はキリコと一式の布団で一緒に寝るのだと思ってしまったのか。 客用の布団は当然のごとくキリコが一人で使い、僕はネズと、ネズのベッドで男同士共寝することになった。 ま、まあ、それが当たり前ですよね……。ははははは……(乾いた笑い)。 「おやすみー」 部屋の電気が消され、キリコは僕らに背を向けて布団の中にもぐりこんだ。ちなみにキリコはメイクを落として初めてすっぴんを見せてくれたが、ちょっと眉毛が乱れただけで充分に可愛かった。大事な情報をゲット出来たし、これはこれでよしとするか……。 「おやすみ……」 シングルベッドに男2人。ああ、なんて狭苦しく暑苦しいんだ……。今更だけど、毛布だけ借りて床で眠ればよかったんじゃないか? ネズは僕に背を向けて寝そべったが、筋張ったうなじが間近で見えてちょっとドキドキす……るわけないだろうがっ!! 僕もネズを避けるように背を向けて寝た。それでもうっかりするとケツとケツが触れてしまいそうでヒヤヒヤする。 ああ……ぬくい……ネズのぬくもりが……。 ……ってか布団の中の湿度高ぇ……。 一日動き回って疲れたのでさっさと寝てしまいたいのだが、先に眠りについたらしいネズがモソモソ動く度に僕は居心地の悪さを感じた。 今からでもベッドから降りて床で寝ようか……。 そう思った時に、パシャッというシャッター音に気付いた。なんとキリコが携帯を僕らの方へ向けて写真を撮っていた! 「な、なにしてるんだよキリコ!」 「あっ……面白い光景だから友達に見せようかと思って……」 酔っ払ってるキリコは時々悪ふざけが過ぎる。 「やめろよ! それ絶対腐ってる友達だろ!! 拡散されてネタにされるからやめろ!!」 僕はベッドから起き上がってキリコから携帯を奪って画像を消去しようとした。生徒会長とのホモ疑惑をかけられた中学時代の苦い思い出を繰り返してはならない! 「やだぁっ……冗談だって! ……あっ」 キリコから携帯を奪おうと思った行動は、そのまま彼女を布団の上に押し付けるような体勢となった。 酔ったキリコ、酔った僕。 キリコの長い髪が布団に広がる。キリコは驚いた表情のまま僕を見つめ返した。 「……」 「……」 僕が唾を飲み込む音が、妙に大きく聞こえた。文字通り目と鼻の先に、キリコの顔がある。体の中でムクムクと何かが盛り上がっていくような感覚。 いいのだろうか? 僕はそこから先に踏み出していいのだろうか? 「……きっ…キリコ!」 「……ねえ、静か過ぎない?」 「……へ?」 キリコが不意にそんなことを言い出した。そんなことどうでもいいじゃねーか早く続きを……と思ったが、確かに妙に静か過ぎるような気がした。外から車の音が全く聞こえなくなっている。それに、カチカチやたらうるさかったネズの枕元の4つの目覚まし時計から秒針の音がしない。 先ほどのネズの話を思い出した。僕はネズの方を振り返ったが、ネズは僕らがこれほどバタバタ音を立てていたのに熟睡したままだった。 部屋の電気を付けて、時計が動いているのか確認しよう。しかしスイッチを入れてみたが、何度切り替えても全く点灯しない。 「さっきのネズの話……」 キリコが不安そうに言った。 「まさかぁ。たまたまだよ。外に変な人でもいるっていうの?」 僕はキリコの不安を拭ってあげる為にベランダに出てみた。 「……!?」 目の前に広がる光景がにわかに信じられなかった。 アパート前の歩道を歩いていたらしき男性と、その傍の犬の足が上がったまま静止している。車も同様だ。しばらく見ていても信号は変わる気配もない。 ネズの語った光景、そのままだった。全てが止まった世界。耳の痛くなるような静寂。 ……そういえば。 ネズは、その中で唯一動く者があったと……。 僕は、まるで絵画か写真のように動かないフレームの中で、小さな影がのそっと動いたのを見た。 曲がったような腰。ヨタヨタと歩く細い2本の足。フードのようなものを目深にかぶっているようで顔は見えない。服はあちこちが黒っぽく汚れていた。いや、黒ではない。赤黒く、血の乾いたような色だ。 手には何か白っぽいものを持っている。さっきネズは何を持っていると言っていたか……! 「jkhのす;ssdlm!」 突然影の人物は、金切り声で叫んだ。 僕は恐ろしくなって急いで部屋の中に戻ってベランダの戸を閉めた。 「ど、どうしたの信繁……!?」 「ネズの言った通りだ……。みんな止まってる……。 なのに、一人だけ、動いてる奴がいる……! 鎌を持った、小さい奴が……!!」 「え……!?」 キリコは信じられないと言った顔で口を覆った。 「ネズ! 起きろ! ネズ!」 僕は眠ったままだったネズを揺り起こした。何度か揺するうちにネズはうなり声をあげながら目を覚ました。 「……。……なんだ?」 「お前が言ってたみたいに、時間が止まってるんだ! でもって、よくわかんない気持ち悪い奴がこっちに向かって歩いてきてて……!」 ダンッ! ダンダンッ! 突如鳴り響いた扉を叩く音に、僕ら3人は凍りついた。 ダンダンダン! 動けないまま何もしないでいると、竦む僕らをかばうように、起き上がったネズが前に出た。 「あ、開けるのか……?」 僕が言うと、ネズは小さく首を振った。 「この世界で動けるのがあいつだけ……。だとしたら、これもきっとあいつだ……。あの鎌と返り血を見たか……? ……絶対に開けちゃいけない。今のうちに、外に逃げよう……!」 「でも、ここは2階だろ!? 飛び降りれない高さじゃないかもしれないけど、キリコだっているし……」 「……ベランダに避難はしごがある。それを使おう」 何度も扉がダンダンと叩かれる音が響く中、僕ら3人はベランダに出た。とはいえ避難はしごなど使ったこともない。躊躇していると、ネズが手早く蓋のようなものを開け、スイッチを入れてはしごを下ろした。 「キリコ、先に行けよ」 僕がキリコを促すと、キリコは戸惑いながら頷いてはしごを降りていった。スチールのような素材で出来ているとはいえ、吊るされただけで下が固定されていないはしごを降りるのは怖いらしく、あまり運動神経の良くなさそうなキリコは恐る恐るゆっくりとしか降りられなかった。 ダンッダンッダンッダンッ! 扉が壊れそうな音だった。焦燥感に襲われながらも、キリコが1階に降りきるのを見届ける。 「信繁、次はお前が行け」 「いや、でも……」 「俺はお前達の靴を取ってくるから、先に……」 「靴って……玄関だろ!? ドア開けられて襲われたらどうするんだよ!」 「……ちょっと取ってくるだけだから。靴も無しに走って逃げるのは大変だろう? ……早く!」 僕はここでこれ以上モタモタしていても仕方ないので、ネズに心を残したままはしごを降りることにした。足場の細いはしごは僕の体重でゆらゆらと揺れて安定しなかったが、半ばまで降りてくるとそのまま飛び降りてキリコの傍に寄った。 「ネズは?」 「靴を取ってきてくれるらしい。とりあえず少し離れていよう」 僕はキリコの手を取ってアパートの敷地内ギリギリまで離れることにした。とはいえ敷き詰められた駐車場の砂利の上を靴無しで歩くのは厳しいものがある。僕はベランダが見える位置まで行って、ネズが降りてくるのを期待した。あいつがやられるはずがないんだ……。 「信繁!」 僕の期待通りに、ネズは姿を見せてくれた。その時、 ドッガアァァァッ!! ドアが破られる音が鳴り響く。僕は全身の血の気が引くのを感じた。 「ネズッ! 早く!!」 僕はたまらずに叫んだ。ネズは僕達の姿を見つけると、そのまま空に…… ……え? 靴を三足抱えたまま、ベランダから空に舞い上がり……膝を柔らかく使って、手を地面に付くこともなく着地した。 「待たせたな……」 そして僕らのところへ駆け寄り、スニーカーを放って渡してくれた。 クッソ……かっこいい……! 前にほんの気まぐれで近遺研のメンツで3on3をやった時のことを思い出す。長身を生かし高校時代バスケ部だったというネズの華麗なダンクシュートを目の前で見て、何故自分はこのような体に生まれてこなかったのだと悲しく思いながらも見惚れたのだった。しかしその公園のコートは実はダンクシュート禁止だったらしく、後で管理者に怒られたというオチが付くのだが。 「何をボーっとしてるの信繁! 逃げましょ!」 キリコにどつかれて僕は慌てて受け取ったスニーカーを履いた。 「kんごあでょsmsかlkjf!!」 奇声に目をやると、ベランダに例の鎌を持った人物が現れていた! 「まずい! 行こう!」 すぐにスニーカーを履きたかったが、ハイカットのコンバースがそれをさせてくれなかった。ああ、よりによってなんて靴を履いてきてしまったんだ……。仕方なくハイカット部分を折り返して、ろくに紐も結ばずにつっかけた。 走る。走る。 止まった世界の中を、一体僕らはどこに逃げようというのか。逃げおおせたとしても、時間は再び動き出すのだろうか……。時間が動き出さなければ、僕らは一体どうなってしまうのか……。 息が苦しくなってくると、不意にそんなことが頭を過ぎってくる。そもそもどこまで走ればいいのかわからない。あの人物の足はそこまで速くないように見えたが……。 「一度、この陰に隠れようよ。走り続けたって限界がある」 僕は2人に、コンビニ脇の細い路地に入ることを提案した。ダンボールやら色んなものが置いてあったので隠れるのには適しているように思えた。 「……そうだな、そうしよう」 後ろを振り返り、あいつが見ていないことを確認すると、路地に入った。やや奥まで入ると、散らばっていたダンボールを積み重ねて姿が見えないようにバリケードを作った。 「はあ……はあ……なんなんだよあいつは……。一体どうなっちゃったんだよ……!?」 僕は思わず頭を掻き毟った。汗で服がまとわりついて不快だ。バリケード内に隠れてはいるが未だに追いかけられているという焦りは抜けない。 「一体何が起きてるの……? わたし達、これからどうすればいいの……?」 「……」 僕達が思い思いの言葉を口にする中、ネズは押し黙って何か考えごとをしていた。 「そうだネズ、お前はどうやってここから元の世界に戻ったんだっけ?」 「……どうやっても何も……。あいつに気付かれて、何か怒鳴られて……気がついたら朝だ」 「あー、夢かよマジで……。どうすりゃいいんだよ……」 「……」 何も解決策が浮かばない。あいつのあの血まみれの服装と鎌を見るに、あいつに捕まったらあの鎌でズタズタに引き裂かれて殺されてしまうんだろう。僕らのようにこの世界に迷い込んだ人間を片っ端から捕らえて……。 恐ろしい。考えただけで足が竦む。 「……。……あの声、どこかで……」 ネズがそう呟いた時だった。 「kskgんごdjfぢそkms!!」 「……!」 あの耳をつんざくような奇声が聞こえた。バリケードから覗くと、あいつが僕らのいる路地の入り口に立ってこっちを見ているではないか! 「うわああああ!」 僕は驚きのあまり、積んだバリケードにぶつかりながらも奥へと逃げようとした。 しかし、先ほどつっかけたままだったコンバースがもつれて、その場に派手にずっこけてしまった。僕は地面に手を付きながら、もう二度とハイカットのコンバースは買うまいと決意した。 「……信繁!」 先に逃げ始めていたネズがそんな僕を気遣って振り返る。 「ネズ……! 先に逃げろ!」 僕がそう言ったのに、ネズはキリコに隠れるように促してから、僕のところへと駆け寄ってきた。 ちくしょう……イイヤツめ……。だからむかつくほどのイケメンだけど憎めないんだよ……! ネズは僕の手を取って引き起こそうとしてくれた。その時、 「ksjfん;あいにdjjsj!!」 ガキイイイィィン! 「ぎゃあああああああっ!!」 目の前にあいつが投げてきた鎌が突き刺さって、僕は悲鳴をあげてしまった。まずい、腰が抜けた。ちびらなかっただけマシだが、本気で立てなくなった……! 振り返ると、あいつが曲がった腰でヨタヨタと僕の方へ近づいてくる。 「ね、ネズッ! 立てない! 助けてくれぇ……!!」 情けないが、僕はネズにそう懇願した。しかしネズは、真顔で硬直していた。 「何やってるんだよネズ! 早くしろよッ!」 人間、本当の命の危機に陥ると浅ましいものだ。それでもネズは僕を助け起こそうとはせず……僕の目の前の地面に刺さった鎌を抜き取って、その柄を見て声を震わせた。 「……。 ……この鎌の柄に刻まれた、『チヨ☆』の文字……。 ……まさか、ばっぱ!?」 「……は?」 「……へ?」 僕とキリコが冷めた声を出すと、ネズは自分からあの腰の曲がった人物に駆け寄って行った! 「ばっぱ!」 「ksjdl!!」 なんと、ネズとあいつはひしっと抱き合った。 い、一体何が……!? 何が起きてるのかさっぱりわからん……! 「kdjlkjkdlm、kdんksj、dびgんlsksjぁ?」 「ああ、オラだば元気だ。くたにおがったど(ああ、俺は元気だ。こんなに大きくなったんだよ)」 「kjgdljms? げkjmしmskjg?」 「なんもだ。ただの友達だ。今は大学でホウリヅやっでら(この子は彼女でも好きな子でもないよ。ただの友達だ。今は大学で法律を勉強してるんだ)」 「んgkdjsn、skjsb、klsんlvsj……」 「ばっぱもかわんねェな(ひいばあちゃんも昔のまんま変わらないなあ……)」 あいつは、フードを……あ、よく見たらフードじゃなくて頭からかぶった手ぬぐいだった。その手ぬぐいを取り去った。下には、日に焼けて色黒の柔和そうな老婆の顔があった。 ばっぱ……ってことは、まさか、ネズのおばあちゃん……!? でもなんでこんなに血まみれで、僕達を追いかけてきたりしたんだ……!? それに、ネズの言葉はまあ、なんとなくわかるけども……、おばあちゃんのしゃべっている方言は何なのかまるで聞き取れない。日本語の発音とは思えなかった。 「ネズ、どういうことなの? 説明して……」 ネズとおばあちゃんが話しているのをしばらく呆気に取られて見ていると、キリコが僕の傍に寄ってきてそう言った。 ネズは、そっと振り返って僕らにそのイケメンフェイスを見せると、わかりやすく標準語で語り始めた。(※ただし標準語で話すとものすごく遅いので簡潔にまとめてみた) このチヨばあちゃんは母方の曾祖母で、ネズが6歳の時に稲刈りの帰り道に交通事故で死亡している。 実はその時、稲刈りを手伝っていたネズと手を繋いで歩いていて、そのネズをかばうようにして軽トラに轢かれたらしい。 轢かれながらおばあちゃんは、子供の頃から美少年で利発だったネズの行く末を見られないことをかなり無念に思ったということだった。 大きくなったら長谷川一夫ばりの美男子になるに違いない。それを見られずに死んでいくのが口惜しい……。 あと、やっぱり遺影用に撮った写真でピースなんかするんじゃなかった……。 その時、おばあちゃんの意識の中に常日頃から熱心に拝んでいた阿弥陀如来が現れて、おばあちゃんの意識を『時間の切れ間』に飛ばしてくれたということだった。 この『時間の切れ間』は時間を輪切りにしてったもので、阿弥陀如来はおばあちゃんに、その切れ間の中で動き回ったり、切れ間から切れ間に飛んだり、自由にしていられる能力を与えてくれたようだ(そんなバカな)。なんでも阿弥陀如来は時間の制約を受けない仏様らしい。 遺影の写真は阿弥陀如来でもどうにもならなかったようだが、かくして、ネズの行く末を見たいというおばあちゃんの願いは聞き届けられた。その能力を手に入れたおばあちゃんは、ネズの成長を時間の切れ間切れ間で見守ったり、いじくり回したりしたらしい(やめろよ)。 ところが、どういうわけか最近ネズがその切れ間に飛び込んでくるようになった。それがあの夢(?)の正体だったようだ。もしかしたら4つも目覚まし時計があることによってそれぞれの秒針の微妙なズレを感じてネズの周りの空間が不安定になり、切れ間に落ちるようになってしまったのかもしれないということだった(だったら時計屋はどうなるんだよ)。 そんなわけで、再び切れ間に落ちてきたネズや僕らを、元の時間の流れに戻してやろうと現れたのだということだった。 「jhgdshk、kさklkjn、dlsjkぃjみ、kdkjlskjh」 「……最近はAV業界の奴等がわざとこの切れ間に入り込んできて撮影しようとするからいちいち送り返してやるのが面倒くさい、と言ってる」 「あれ、やらせじゃねえのかよっ!」 僕は鋭くツッコミを……。ツッコミを……入れるのも、もう疲れた……。 どうやら、服が血まみれだったのはチヨおばあちゃん自身が車に轢かれた時の血だったらしい。なんて人騒がせな。ドアをぶち壊してきたりするからすげー怖かったんだぞ! ドアをぶち壊……あれ? おばあちゃん……?? 「おばあちゃん、初めまして。才原霧子です。根津くんとは大学で仲良くさせてもらってます」 キリコが挨拶したが、チヨおばあちゃんはツーンと顔を背けた。そして僕を見て……何故か目をキラキラさせて手を握ってきた。が、ガサガサした手だ……。 「……信繁、気に入られたみたいだ……」 嬉しくねえええええええええ!! 「あ、ど、どうも……のぶしげです……」 僕は作り笑いで挨拶した。チヨおばあちゃんは頬を紅潮させて僕の頭をなでなでしてきた。はうぅ……あたまはよわいんだよぉ……。 僕のおばあちゃんとは似ても似つかないタイプだけれど、なんとなく安心してしまう。きっと小さかった頃のネズはこのおばあちゃんが大好きだったんだろう。そのおばあちゃんが目の前で自分をかばって轢かれたわけだから、ネズはきっと心の底にそのトラウマを抱えて生きてきたに違いない。こんなシチュエーションではあるが、おばあちゃんを見るネズの表情は心底嬉しそうだった。 「jhskl、kjhlsl、jhfbsdjんhslkhfs」 しかしふと、おばあちゃんは急に真面目な顔つきになり、ネズに何かを言った。 「……何て?」 キリコが聞くと、ネズはシリアスな顔になっていくつかおばあちゃんとやりとりをし、僕らに向き直った。 「……この時間の切れ間と切れ間の間で『揺らぎ』が起きているらしい。だから色んな人達が簡単に迷い込んでくるようになったんだと言ってる。 時間の流れっていうのは光の速さに付随してくものだが、その光をも……空間をも歪めるような恐ろしく重い質量の存在を時々感じるそうだ……」 「え? どういうこと?」 「……」 ネズはじっと押し黙って空を見上げた。街の明かりに照らされて星の一つも見えないような、灰色の空を。 「……とにかく、ばっぱが阿弥陀如来の力を借りて俺達を元の時間の流れに戻してくれるそうだ。ばっぱの言うことに従ってくれ」 ネズの指示に従って、僕らはおばあちゃんの前に集まった。 「jhbぁshltmk、kしんls、mkdhslんs」 「……。……よし、そうしたら信繁、背を向けて鼻の穴に二本の指を突っ込み上半身だけこちらを向けて『げっちゅー』と言うんだ」 「……」 僕はジト目でネズを見た。 「……何をしてるんだ信繁。早くやれ。これは戻るのに必要な儀式だそうだ。かの親鸞聖人もそうやって如来とコンタクトを取ったらしいぞ」 「ぜったい嘘だろッ!!」 僕はそう訴えたが、おばあちゃんはにやにやと笑いながら僕を見ているし、ネズは至極真面目な顔だった。キリコは肩を震わせて笑いを堪えている。 くっ、くそババアめ……僕がやらなきゃいつまでも帰してくれないんだろうな……!! 僕は屈辱に顔を歪ませておばあちゃんを睨みつけながら、ゆっくりと後ろを向いた。怒りで震える指を鼻の穴に突っ込み、そのまま体を捻って振り返る。 ああ、なんでこんな役回りなんだ! 「……げ、げっちゅー☆!!」 その瞬間、僕らはまばゆい光に包まれた。 な、なんか魔法使ったみたいで案外カッコイイ……!? 僕らはどこが上とも下ともとれぬ、重力の制約を受けない空間に投げ出された。 (元気でな……。おめ達の時間は、オラが守る……) こ、こいつ、直接脳に……!? 光に包まれていく中で、チヨおばあちゃんが最後に僕らに見せてくれた優しい笑顔が、僕の脳裏に焼きついた。 気が付くと、ネズの部屋で朝を迎えていた。 窓の外からは行き交う車の音や生活音が飛び込んでくる。なんの変哲も無い朝だった。音が聞こえてくるということがこれほどまでに安心感を与えてくれるのか、と、天井を見上げたまま思った。 あれは夢だったのだろうか? ……いや、違う。僕は自分が靴を履いていたことで夢ではなかったのだと確信した。そしてそのまま、横で眠っていたネズやキリコに声を掛けて起こした。 キリコは頭が痛そうに起き上がり、ネズは起きてもしばらくずっと正面を見据えて動かなかった。きっと僕と同じで、あれが夢だったのかそうでなかったのか自問自答しているのだろう。 「……あんな体験、信じられないけど、現実なんだな」 僕の言葉で、2人も確信したようだった。 「……。……そうだな」 「やっぱり夢じゃなかったんだ。無事に戻って来られてよかったね。一時はどうなることかと思ったけど」 キリコは安堵の笑みを浮かべた。本当にそうだ。おばあちゃんが化け物などではなくて本当に良かった。あんな世界に生き続けるのもごめんだし。 そう考えながらふと、死んだ後とはいえあの世界にずっと居続けるチヨおばあちゃんの孤独を考えた。自分以外が全て止まっている世界。一時的に止められるだけならともかく、永遠にそれであるのはやはり寂しいのではないだろうか。 ……いや、あのおばあちゃんならこれまでも楽しくやれていただろうし、これからもきっと楽しくやれるのだろう。そこへたまにネズが訪ねて行ってあげられるのならば、もっと喜んでくれるはずだ。 「でも、ネズはこれから先でも行こうと思ったらいつでも行けるんじゃないかな。時間の揺らぎってやつは、まだ続いていくわけだろ? 目覚まし4つ全部かけて寝てればいいわけだし、たまにおばあちゃんに会いにいくのも楽しそうだよね?」 AV業者もそうやって何度も来ていたらしいしな。 僕がそう言うと、ネズは目を細め、意味ありげな表情で笑った。 「……時間の揺らぎ……か。 ……。……何度も、行くことになるかもしれない。一人で戦うなんて無茶過ぎるからな……」 「え……? 戦う……?」 ネズは、窓ごしに空を見上げた。まただ。一体空に何があるというのか。おばあちゃんとネズの会話のほとんどがよくわからなかったから、ネズが何を考えて空を見ているのかさっぱりわからない。 「……。……こうして普通の時間の流れに戻ってくると、日常がどれだけ大事かよくわかるな……」 「どういうことだよ? ま、まさか、自由に行き来できるようになるからって、あの空間を悪用したりしないよな? 時間を止めて僕を好き勝手にいじったりしないでくれよ?」 僕はふざけてそう言ったが、ネズは微笑みを返してくれただけでそれ以上は何も言わなかった。 PR