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束縛スル里

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忘却と白き桜の下

 桜が、咲き始めていた。
 もうそんな季節だったのかと、僕は驚く。
 となりにいるネズとキリコも、桃色というよりは限りなく白に近い桜の花びらに目を奪われている。無理もない。やっと春になり、冬眠から覚めたはいいが未だ寝ぼけた生き物たち。桜は、そんな僕らにその鮮烈な色で春への自覚を促してくれる存在なのだ。
 強風に揺られた花びらたちは、今はまだ散るもんかと力強く枝にしがみ付いていた。散る桜は言うまでもなく美しいが、こうして風に耐える桜というのもまた風流だ。
 やがては一斉に散る運命。ただのやせ我慢かもしれない。だけど、いつか来る運命の時まで精一杯咲き誇る桜の花は、あまりにも美しく、見る者を魅了してやまない。僕は、その雄々しい姿に心を打たれてしまったのか・・・・・・不思議と涙があふれてくるのを感じた。
 桜の花たちが、風に揺られている。

 ひらひらと、白の細片が舞い踊る。
 力強いそのさまを、僕は見ていた。

 美に対する感動。
 それが、僕が涙を流す理由。
 ・・・・・・本当にそうだろうか。
 こうして涙が流れる理由は、美しい桜の姿に感動したからではなくて、なにか、絶対に忘れてはならないことを、忘れてしまったからのような・・・・・・その忘れてしまったことが、僕に訴えかけているのかもしれない。

 どうして私のことを、忘れてしまったの・・・・・・と。

 これほどまでに涙が流れるのだ。きっと、とても大切なことだったに違いない。きっと、死んでも忘れたくないと思っていたに違いない。
 僕は、白く優美な桜を改めて眺める。
 桜の下には、死体が埋まっているという。
 それを最初に言い出したのは誰なのだろう。桜は埋められた人の想いや身体を力にするから、儚くも妖艶に狂い咲くのだろうか。赤黒く染まる人の血を吸ったにもかかわらず、桜の花びらが澄んだ色をしているのはどうしてなのだろうか。
 僕は急に桜の木の根元を掘り返したくなる。まさか人の死体が本当に埋まっているわけはないだろうが、もしかしたら・・・・・・忘れてしまった大切な何かが、埋まっているかもしれない。
 とめどなく流れ続ける涙・・・・・・僕は、どうして忘れてしまったのだろう。あれほど忘れたくないと思っていたはずなのに。それだけは、どうしてかわかる。どれだけ時間が経っても、それによって自分の心の在り方がどれだけ変わったとしても、決して忘れたくないことが、僕にはあったのだ・・・・・・。

「・・・・・・。どうして、泣いているんだ?」
 ネズが心配そうに声を掛けてきた。僕は、鼻水をすすって問いかける。
「なあ、ネズ・・・・・・こんなにも涙があふれるのは、一体どうしてだと思う?」
「・・・・・・。俺に聞くな。なんだ、訳も分からず泣いているのか?」
「ああ。僕自身にもわからないんだ」
 僕がそう言うとキリコが難しそうな顔をしてつぶやいた。
「もしかして」
「もしかして?」
 僕は泣きながらごくりとつばを飲み込んだ。
「ノヴシゲって花粉症なんじゃないの?」
「・・・・・・」

 そうだ、思い出した。
 僕は今朝、花粉症の薬を飲み忘れていたのだ。だからこんなにも涙があふれて・・・・・・。
 僕は花粉症の薬を取り出すと、ペットボトルのお茶で胃の中に流し込んだ。
「・・・・・・。ビンゴか、人騒がせだな」
「ホントだよ。何事かと思っちゃった」
 ネズとキリコは僕に笑いかけてくる。僕も、泣き笑いの表情で返した。
 だけど・・・・・・。
 それからいつまで経っても涙は枯れることがなくて・・・・・・。
 どうして・・・・・・やっぱり、僕は何かを忘れたままで・・・・・・?
「あ。ノヴシゲ、ネズ、見て! あの桜の木、大きくて綺麗だよ!」
 そんなキリコの声で無意識に導かれて、僕は顔を上げて、その桜の木を見た。
 どこか、見覚えがあった。
 その太い幹。透き通るように白い桜の花びら。すこしだけ垂れ下がるような枝。昔、その桜の木の周りを、何度も何度も走り回った気がする。それは、僕一人だけじゃなくて、誰かと一緒に・・・・・・。
「あ・・・・・・」
 見えた、気がした。
 その桜の木の根元。行儀よくお尻を落として、舌を出しながら、その無垢な瞳で、僕を真っ直ぐに見つめる白い犬を・・・・・・。
「・・・・・・」
 今度こそ、本当に思い出した。
 僕がまだ小さかった頃。桜の木の元に埋めたのだ・・・・・・死んでしまったあの子を。白い毛並みの小さな身体と、大きな耳と、くるんと回ったしっぽを持って、僕の後ろを嬉しそうに追いかけてきたあの子を・・・・・・。
 僕は、好きだった。
 本当に好きだったのだ・・・・・・あの子のことが。
 僕らと違って長く生きられないことはわかっていたけど、それでも、ずっと一緒にいたいと願ってやまなかったんだ。
 どうして僕は忘れていたのだろう。あんなにも大切に思っていたのに。日々薄れゆく記憶。それは当たり前のことだけど、言い訳にはできないし、したくもない。

 僕はその桜の木の下に立ち、上を見上げる。まるで空を覆い尽くしてしまいそうなほどの鮮やかな白。その色に、どこかあの子の面影を感じて。僕は唇を噛み締める。
 あの子は、僕に出会えて幸せだったのだろうか。少し時間が経ったくらいで、君のことを忘れてしまっていた僕と一緒で、本当に幸せだったのだろうか。
 心臓を悪くしたあの子。食欲を無くしていったあの子。足元もおぼつかなくなったあの子。苦しそうに何度も悲鳴を上げたあの子。きっと、必死で訴えていたのだろう。それでも僕は、あの子がいなくなる瞬間も、まるで他人事のように、あの子のいた部屋とは別の部屋で一人でTVゲームをして笑っていたのだ。
 気が付いた時には、あの子は・・・・・・たったひとりぼっちで、死んでいた。あれだけ痛そうに泣いていたのに。僕は気が付いてやれなかったのだ。それが、悔しくて仕方がなかった。
 苦しかっただろうに、寂しかっただろうに、せめていなくなる瞬間だけは、抱いていてあげたかった。暖かく、安らかに、せめて・・・・・・。寂しい気持ちで、あの子を・・・・・・死なせたくなかったのに。僕は、ずっと後悔し続けて・・・・・・いつの間にかその記憶を消してしまったのだ。
 僕は・・・・・・馬鹿だ。

「・・・・・・。ん?」
「・・・・・・どうしたの、ネズ」
 ネズは目元をごしごしと擦った。
「・・・・・・。いや、お前の足元に、白い犬がいたような気がしたんだが・・・・・・」
「あ、わたしも見えたよ! 偶然だね」
 キリコはそう言ってはしゃいでいる。僕は二人に恐る恐る問いかけた。
「・・・・・・その犬、どんな表情をしてた?」
 ネズとキリコは顔を見合わせると、柔らかな笑みを浮かべた。
「わたしには、楽しそうに尻尾を振ってたように見えたよ」
「・・・・・・。ああ、すごく嬉しそうな顔をして、お前を見上げていたよ」
「・・・・・・そっか」
 僕は、まぶたを閉じた。
 僕とって、あの子といた日々は幸せそのものだった。僕は、あの子といる時は自然と笑顔になっていた。そして、あの子も・・・・・・。あの、嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねて、思いっきりしっぽを振っていた愛らしい姿。あの子は、見ているこっちが楽しくなってしまいそうな、そんな姿でいつも僕と一緒にいた。
 それはきっと、僕との生活を幸せに思っていてくれていたからで・・・・・・。
「・・・・・・ごめんな、忘れていて」
「・・・・・・。何か言ったか?」
「いや、何も。そろそろ別の場所にいこっか」
「うん、そうだね」
 僕はその桜に背を向け、歩き出す。
 僕は、あの子のことをまた忘れてしまうかもしれない。その時は、またあの子に「どうして私のことを忘れてしまったの」と言われてしまうかもしれない。
 いや、きっとあの子はそんなこと思ってもいないし、言いもしないだろう。ただただ僕が、あの子のことを忘れてしまいたくないだけなのだ。
 だから、今度こそあの子の記憶を心に刻み込む。あの子との素晴らしい日々を、二度と忘れないように。
「ネズ、キリコ。実はさ、僕って小さい頃白い犬を飼ってたんだけど・・・・・・」
 あの子が幸せでいてくれたことに気が付けたのだから、今度こそ、僕は忘れずにいられるだろう・・・・・・きっと。
 桜の花びらのように白い、あの子の姿を・・・・・・。

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