忍者ブログ

束縛スル里

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ミドルノート 前編

※異変怪道編のエピソードになりますのでクリアしていない方はご注意下さい。





 





 近くの川で集めてきた10匹のオタマジャクシ。
 イチゴが入っていた透明な容器に水を溜めて、縁側で飼っていた。
 オタマジャクシは雑食なので、ご飯粒や鰹節、パンなど、与えれば何にでも群がってきた。体を震わせながらその小さな口でつつく様子がとても可愛らしく、ちょろっと生えてきた後ろ足を見て早くカエルにならないかとワクワクしたものだった。

 しかし、ある日僕は、ちょっとした不注意でそのオタマジャクシを入れた容器を縁側から落としてひっくり返してしまった。

 10匹のオタマジャクシは炎天に晒された地面の上に投げ出された。



       ◆




 晩春の暖かな公園で遊ぶ子供達を横目で見ながら、そんな昔のことをふと思い出した。
 
 昨夜午後7時50分頃、自転車で帰宅中の大学生一年生の少年の顔を、同じく自転車に乗った二人組の男がいきなり殴りつけ、「金を出せ」と脅す強盗致傷事件が発生した。
 被害金額は財布に入っていた15000円。被害者は全治2週間の怪我を負った。
 それに伴い、被害にあった現場付近で他に二人組に関する目撃証言が無いか、聞き込みをして回っていたところだった。

「まーたそんな目で見てる。筧さん、不審者に思われますよ」

 相方の平康太、通称『ヒラ』に突っ込まれて、僕ははっとして姿勢を正した。
 ヒラは強行犯係にはまだ配属になったばかりの26歳であるが、既に可愛い妻子持ちだ。
 警察官は割と早いうちに結婚する奴が多い。さっさと独身寮から出ていけるというのもあるが、ハードワークゆえに心の支えが必要だと、周りがやたらと結婚を勧めてくるからだ。ただし家庭が二の次になってしまうことが多いので離婚率もそれなりに高いが。
 独身の僕もずっと寮生活だったが、元々実家が通勤圏内にあったし、定年退職後、民間企業に勤め始めた父と今なら少しは落ち着いて話すことが出来るかもしれない、と、30になったのを機に実家暮らしを始めたのだった。
 だが父も休日はパチンコに行ったり釣りに行ったりと、家にいることが少なかった。結局ろくに話もしないままパチンコ屋で倒れて帰らぬ人となった。僕は迷惑をかけたパチンコ屋とその時に救命活動を行ってくれた他の客に礼をし、最後まで父の尻拭いをせざるを得なかったのだ。
 その後僕は、嫌な思い出だらけの実家を売り払い、近場にマンションを購入してそこに住むようになった。

 最後まで分かり合えなかった。

 ……いや、僕は分かり合いたいと思っていたのか?

 父子家庭であったのに、お互いにどう接していいかわからないままだった。父はとっくの昔に僕を殴らなくなったが、皮肉なことにそうなることでかえって僕と父の接点は無くなっていった。
 僕は父に強制されて小学生の頃から近くの警察署の少年柔剣道教室に通い、柔道と剣道を共に習ってきた。そこまで運動神経が良い方でもなかった僕にとっては両方をこなすのはつらかったし、始めのうちはこれも父からの暴力の延長のように感じていた。もちろん、途中でそれぞれの面白さや奥深さに惹かれるようになって、中学生になる頃には苦痛には思わなくなったが。
 警察官でも柔道と剣道の両方をやっていた人間は多くはない。ただ、柔道のみをやってきた人間は危害を加えようとする相手と対峙した時にすぐに相手の懐に飛び込もうとする為、怪我をする確率が非常に高いのだ、と、以前当時の上司から聞いたことがあった。もちろん剣道をやっていたとしても丸腰ではどうにもならないが、間合いをしっかりと取ることが身に付いているので職務中に怪我を負う確率が圧倒的に柔道のみをやってきた人間よりも低くなるらしい。
 僕はその話を聞いた時に、僕が両方やらされていたのはもしかしたら父が僕のことを思ってくれていたからではないか、と考えた。父自身は柔道しかやっていなかったからだ。しかし、その真偽を確認する時間は、最後まで訪れなかった。

 幼少から大学を卒業するまでずっと家政婦として来てくれていた花井さんだけが、僕の仮初めの母であり心の寄りどころだった。
 花井さんにも家庭があったから遅い時間になれば帰っていったが、それでも、学校から帰った僕を迎え入れてくれる人がいるだけでも、幼い僕は心の安定を手に入れることが出来た。
 僕の本当の母親は、僕が幼い頃に姉を連れて出て行ってしまったまま行方知れずになったと父は言っていた。僕の中に母親の記憶はほとんど無い。父に殴られる僕を庇って、同じように父から殴られていたようなおぼろげな記憶があるが、それが本当の記憶なのか、母を求めた自分が作り出した記憶なのか定かではなかった。

 一昨年、実家にその母が死亡したとの手紙が届いた。宛名は僕の名前だったが、差出人の住所も名前も無かったのは、父を敬遠するためか。僕の話を聞いていた母の周りにいた何者かが気を利かせて知らせてくれたのだろう。
 長らく離れていて記憶もない母親だ。ショックは無かった。暴力を振るう父親の元に僕一人を置いて家を離れた母親の死に、僕はびっくりするほど冷静だった。母と一緒にいなくなったという姉の手がかりになるかもしれないと消印の先である山梨県の町を探ってはみたけれど、結局差出人はわからなかったし母達がそこにいたという話も得られなかった。

「不審者は無いだろ。不審者は!」
 僕は明るく振る舞った。
「いやいや、こんな真昼間に町中をウロウロしてる男がそんなもの欲しそうな目でじーっと子供達を見てたら、自分なら職質しますね! 間違いなく!」
「ウロウロしてるのはお前も一緒だろ!」

 ……そうだ。ヒラの目は間違っていない。

 僕は先日、少女を殺した。

 始めは殺意があったわけではなかった。偶発的な過失だった。
 ……だがその後、包丁を繰り返し振り下ろした僕の中には明確な殺意が生まれていた。弁解のしようが無い。あの時に何故あんな感情を抱いてしまったのか、今ではわからない。殺人の動機の多くが突発的なもの……わかってはいたが、身をもって実感することになるとは思ってもみなかった。
 彼女……サリちゃんの遺体は人目のつかない廃屋の汲み取り口の中に隠した。部屋に残った血痕も酸性洗剤で処理はしたが、結局のところ全ての痕跡を消すことは不可能に近いので部屋を調べられればわかってしまうだろう。捜索願が出されてから僕のところに捜査の手が届くまで、どれくらい時間が残されているのだろうか。
 こんな風に、仕事の合間にヒラとふざけあうことも出来なくなる。家庭を持つことを望む前に、もはやそんなことも出来ない立場に追い込まれてしまった。
 犯してしまった行為は、どう抗おうとも無かったことには出来ない。そもそもが無計画だった犯罪は穴だらけだ。普段からその穴をつついているのは僕らなのだ。

「まあ今回は、被害額も被害者のケガも大したことなかったようだし、良かったですよね。今日は早く家に帰れそうだ」

 僕は再びはっとしてヒラに顎を向けた。こんな発言、警察官がしていいものではない。

「逮捕も出来てないんだからまだそんなこと言うなよ。連続犯になって、女の子とかが狙われたらシャレにならないぞ」

 以前担当した強盗強姦致死事件の被害者の痣だらけの姿を思い出して、胃がきゅっと締め付けられた。あれは本当に胸糞の悪い事件だった。
 だが今となっては、僕も似たようなものなのかもしれない。あの時の被害者よりもっと年若い少女を手にかけ、不浄な場所へと隠した僕と、あの時の犯人と、一体何が違うのだろうか。生前に性を弄ぶような行為をしなかった。違いはそれくらいしかない。行ったのは共に、死に至る暴力行為だ。

 あの直後は妙に冷静になっていたけれど、日が経つごとに罪の重さの重圧と、サリちゃんに対する懺悔の気持ちが湧いてくる。
 こうして平然を装ってはいるが……。

 このところ、背後に何かの視線を感じることが多い。
 誰かに見つめられているような気がする。

 おそらく、世間に対する後ろめたさがそうさせているのだろう。

 捜査の手が僕に及んでいないか、何者かに監視されていないか、気を張ってしまっているからそう感じるのだろう。
 人を殺した後に平然としていられる人間の方が少数派だ。
 僕は至って普通の人間だ。
 だから、今の僕の精神が、平常とは違うというだけなのだ。
 この気配は、僕の気のせいだ。




       ◆




 『我々が動き廻っているのも、生存しているのも、常に同じ埒内にあるのであって、生きているからといってその為に新たな喜びが作り得られるわけのものではない。
 渇望する憧れは、とても達せられないうちは、それが他の何物よりも優れたものでもあるかのように見えるにすぎない。
 その渇望も、一旦達してしまえば、またその後から別なものを我々は渇望するようになる。』

 ルクレティウスの言葉だっただろうか。
 自分に無いものを求め続けていると、常に不満を抱えたまま同じ輪の中をグルグル回るだけだ。
 多くを望まなければいいのだ。
 目の前にある幸せ。充分だ、それで。

 ……充分だった、はずだった。








 玄関の扉を開ける。
 自分の部屋の匂いを嗅ぐと気持ちが落ち着く。すぐにネクタイを緩めた。
 横着して夏用のスーツをまだ出していなかったが、汗で張り付いたシャツを見るに、もう限界だろう。
 明日こそは衣替えをしなくちゃな……。
 歩き続けて底の浅くなった靴を雑に脱ぎ捨て、僕はギョッとした。

 目に入る、小さな黒い靴。
 ……ローファーだ。
 中高生が履くようなシンプルなパテントローファー。
 彼女の……。 

「あ、おかぁりっスー」

「!!」

 改めて玄関を俯瞰して眺めれば、そこにあるのは、シンプルな作りの黒のスリッポン。
 僕のではないことに間違いは無いが、ローファーなどではない。僕の見間違いか。
 そうだ、僕はサリちゃんに彼女の履いていたローファーを履かせて汲み取り口に押し込んだのだ。こんなところにあるはずが無い。ここまで臆病になっているとは、我ながら笑えてくる。
「馬鹿みたいだな……」
 僕は安堵の息と共につい独り言を発してしまった。
「守也くん、いるのか?」
 廊下の奥の部屋に声を掛けながら近づいていく。
 ドアを開けた先には、リラックスした体勢でソファに寝転がりながらテレビの野球中継を見ている守也くんの姿があった。
「オジャーシッテあーす」
 テレビは野球の試合を映している。馴染みのある青いユニフォームと、これまた有名な黒とオレンジのユニフォーム。
「……テレ玉観てるのか。相手は……巨人か。そういえば交流戦の時期だな」
 テレ玉とは、テレビ埼玉のことである。しかし守也くんは別に西武ファンでも何でもないはずだ。
「いやー、観るもんねーんですもん。最近のテレビ似たようなのばっかでつまんねーし、どのチャンネル回しても同じ芸人しか出てこねーし、ニュースは辛気臭くてもっとつまんねーし!」
「ラジオでは広島戦もやってるんじゃないのか?」
 そう思って、朝からポストに入ったままだった朝刊を抜いてきて眺める。
「……うわあ、文化放送もTBSもニッポン放送も、全部西武巨人戦か」
「偏り過ぎっすよー! いっこくらい広島戦やっててもいいのに!」
 そうやって唇を尖らせる守也くんだが、そこまで熱烈な広島ファンというわけでもないらしい。
 広島にいた頃は『広島ファンでなければ非国民』、というムードだったと言っていた。小学生の頃は野球をやっていたらしいので、周りに流されるままに広島を応援していたのだろう。
 それでも彼は、おそらく今の2軍の選手名までは知るまい。本当はサッカーの方が好きなのはウイイレに付き合わされる頻度でよくわかっている。今だって、サッカー中継があればそちらを観ているに違いないのだ。
「夕飯はどうした?」
「食う金無いから来たんすよ」
「……まあ、そうだよな」
 聞くまでもなかった。
 彼はこうして有り金が尽きたり、節約したい時にこうやってちょくちょくタカリに来る。また、この最寄り駅で仲間と路上ライブをしているようで、終電が無くなる時間までやったらそのまま宿を借りに来たりもする。僕の不規則な生活で留守にしがちなこの部屋は、彼に体よく利用されていた。
 もっとも、長い寮生活で自然と溜まっていった貯金や父の遺産もあって今は金にはそれほど困っていない。だから、たまに彼一人分くらいの食費を負担するくらいどうということは無い。
 彼もそれをわかってやってくる。僕が本当に疲れて休みたい時には構わずに寝かせてくれるし、しょっちゅう散らかしたままなのが困りものだが、他に誰が訪ねてくるわけでもなし、迷惑だと言いつつもまんざらでもない自分もいる。
 いや、ずっと迷惑だとは思っていた。だが、サリちゃんを殺した事実に平常心を保てなくなりそうな今、彼が傍にいると気がまぎれていい。
 僕がサリちゃんを殺したのは、この部屋なのだから。一人でいると、色んなことを考えてしまって寝付けなくなりそうだった。
「とりあえずレトルト牛丼しかないけどそれでもいいか?」
「いっす。何でもいいっす。あーチェンジか」
 テレビを観たままの守也くんを尻目に、カウンターキッチンに立つ。鍋に湯を沸かし、レトルトご飯をレンジに入れる。そういえば冷蔵庫にトマトがまだあったはずだ。牛丼だけよりはマシかと、冷蔵庫から取り出して切ることにする。体力と時間に余裕があればもっとちゃんとしたものを作るが、守也くんはレトルトでも文句言わずに食べるから今日はこれでいいだろう。
「……」
 取り出した包丁の刃をじっと眺める。
 僕はこれで、彼女を刺した。
 よく洗浄した後にそのまま使っている。当然気分の良いものではない。気分の良いものではないが、外に捨てて足がつくのも避けたいし、買ってそれほど経ってないのに無くなったことを守也くんが不自然に思っても困る。
 トマトを食べやすいサイズに切って、オリーブオイルとバルサミコ酢と塩、黒コショウをあわせてかける。マヨネーズを切らしたままだったのだ。
「……たまには自分で作れよな。なんで僕が全部やってるんだよ。部屋使わせてやってるんだから、メシ作るくらいのことはしてくれよ」
 別に料理は嫌いではないのだが、この部屋の持ち主が誰であるか示しはつけておいた方がいい。
「オレ、家庭科とか真面目に受けてなかったっすけど、それでもいいっすか?」
 守也くんの作るものに期待など抱くはずもない。
「前も言っただろ。料理は経験なんだよ。やらなきゃいつまで経っても出来るわけないんだから」
 そう言いながら、守也くんの方に視線を向けて、僕は固まった。

 守也くんの座る傍に落ちている、赤い輪っかのようなもの……。

 ……ヘアゴム?

 なんで、ヘアゴムがこんなところに?
 当たり前だが、僕も守也くんも縛るような髪の長さではない。そもそもヘアゴムを持っている男は少ないだろう。

 ……サリちゃん?

 まさか。
 彼女は長い髪をしていた。だがサリちゃんの持っていた荷物は全て彼女の遺体と同じ場所に隠してきたはずだ。
 それに、散らかった大量の血痕を始末した時に、残ったものが無いか床もくまなく見たはずだ。なのに、何故……。
 くそ、とりあえずあれが守也くんの目に留まらないうちに隠さなければ。あんなものが見つかったら怪しまれてしまう。
 僕は、出来上がった牛丼とトマトをテーブルに運んだ。
「出来たぞ」
「ウッス」
 立ち上がった守也くんと入れ違うように、彼が座っていた場所に向かう。彼がテーブルに向いているその一瞬の隙に、ヘアゴムを拾おうという魂胆だった。
「あっ……」
 僕の足元には、守也くんが持ってきたギターが入ったケースがあった。ヘアゴムのことに気を取られて不注意だった足元がそのケースにぶつかった音を聞いて、守也くんが振り返った。
「ん? だいじょぶっすか?」
「……ああ、うん」
 動揺した僕はついうっかり、視線を気になっていたヘアゴムの方に向けてしまった。守也くんの目が、僕の目線につられてヘアゴムを捕らえる。
「あっ……」
「……!」
 ……まずい。
 どう誤魔化そうか。女性が部屋に入ったことにするとか? 何かを留めるのに必要だったから買ったとか?
 僕が唾を飲み込んで言い訳を考えている間に、守也くんは赤いヘアゴムを手に取った。
「オレのゴム。落としてたわ」
「え? ……君の?」
 守也くんは子供っぽさの抜けない顔で得意げに言った。
「コレ、ギターのナットに付けるとカッティングのキレが増すらしいんっすよー。いらねー弦をミュートにするんす。トモダチに言われてさっき買ってきたんっすよ」
「ギターの……」
 ギターのことはよくわからないが……そういうものだったのか。
 僕が表情を張り付かせていると、守也くんが破顔した。
「あれ? マコっさん、ナニ焦ってんすか? 部屋に髪ゴム落ちてるくらい……あ、もしかしてオレいない間にロングのオンナでも連れこんだんっすか? いつの間にィー?」
「そんなわけないだろ……」
 ケラケラ笑う守也くんを前に、僕も曖昧に笑う。
 曖昧に笑いながらも、胃の底の方から重たい怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 もしかして、わかっていて僕をからかっているのか? 守也くんは無知ではあるが決して馬鹿ではない、聡い子だ。こうして一緒に過ごす時間が増えてそう感じることが多くなった。
 痕跡は残さないように処理はしたが、血で汚れたカーペットは替えざるを得なかった。カーペットが以前と違っていることはわかっているだろうし、何よりサリちゃんを隠した場所は以前彼と一緒に訪れた廃屋だ。
 つまり、僕の傍で一番僕の犯行に気付きやすく、遺体を発見しうる可能性があるのは守也くんなのだ……。

「まー、そうっすよね。マコっさん、女ッ気ねーし。もし……
 ……!!」

 僕は油断していた守也くんの体を足払いで投げて床に打ち付けた。
 重い音がする。
 そのまま体の上に跨ると、腕をスイングさせて頬を殴りつけた。
「…なっ……!? っで……!」
 抵抗しようともがく手を取って膝で押さえつけ、更に力いっぱい頬を殴った。歯の折れる音がする。困惑と恐怖に彩られた目が僕を見る。
「マコっ…さ……っ…!」
 逃れようと左右に首を振る守也くんの顔を殴り続けた。
 そのうちに守也くんの口からは血まじりの唾液が垂れ始め、折れた鼻から流れる血と共に新しいカーペットを汚した。
 抵抗する力が弱くなる。守也くんは始めは懇願するような目をしていたが、そのうちに焦点が定まらなくなっていった。
「痛いか?」
 僕は、細いがしっかりと喉ぼとけの浮き上がった彼の首を、両手で締め付けた。酸素を失った顔が、見る見るうっ血していく。
 苦しいのか、守也くんの指は震えていた。しかしそれでいて力強く、文字通りの必死さが僕の心をより昂ぶらせた。
 テレビから歓声が挙がった。西武の中村が2ランを打ったようだ。その盛り上がりに呼応するように、僕の心も躍っていく。
 守也くんの爪が僕の手の甲の肉を毟る。痛い。だがその痛みすら僕の感情の後押しをした。ばたつく足が、ドンドンと床を蹴る。

 ああ、痛い。僕は生きている。
 守也くんも生きようともがいている。
 
 胸がギュッと締め付けられた。初恋を胸に抱いた生娘のように。
 やがて守也くんの手は、力を失って床に落ちた。
 全身を鳥肌が立つ。恐れではなく、喜びで。

「はははっ。……ははははははっ」
 
 そうやって笑う僕の肩に、誰かが手を置いた。






「かけいさん」






       ◆





「筧さん!」
「……っ!!」
 僕はビクンと体を振るわせた。
 一瞬何が起こったのかわからず、目だけを瞬かせる。
「お。筧さん、起きました?」
「……」
 すさまじい動悸と汗だった。
 運転席には、土木作業員の格好で焼きそばパンを口に頬張るヒラの姿。
 いつもの、張り込み中の光景だ。
 そうだ……連続となってしまった強盗致傷事件で、犯人である可能性が浮上した男の自宅前で……。

 今のは夢だったのだろうか。

 息も荒く、首筋は重く痛んだ。覚醒を促すように、首を振ってみる。
「首、痛くなったでしょ? 思いっきり口開けながら首傾けて寝てましたからね」
「ああ……そうだったのか……」
 確かに口の中がカラカラに乾いている。口を開けたままの寝顔を見られたことに若干バツの悪さを感じながら、居住まいを正した。
「よっぽど疲れてたんですかね。なんか悪い気がしたから起こさなかったんですけど、うなされ始めたから気になっちゃって起こしちゃいましたよ。
 ……どうかしました? 汗すごいですよ。エアコン強めますか?」
 ヒラは洒落た黒ぶちの眼鏡の位置を直した。探るような仕草だ。
「……酷い夢を見たんだ……。
 ……悪い、ちょっと気分が。トイレに行ってくる」
「あっ、気を付けて」
 僕は助手席を降り、表に出た。熱気と青臭い臭いが鼻腔を通る。この時期はこんなに暑かっただろうか。こんなに暑いと、それだけで更に体がだるくなってくる。僕の隠した遺体もかなり腐ってきていることだろう。過去に見てきた腐乱死体の様を思い浮かべて更に気分を悪くした。
 ふらつく足のまま、すぐ傍にある公園の薄汚い公衆便所に向かった。

「…ぉえっ……!」
 個室に辿りつくまでに喉をこみ上げる衝動に堪えきれず、僕は洗面台に胃の内容物をぶちまけた。

 なんなんだ。
 なんだんだ、あの夢は……!

 考えれば考えるほど吐き気がこみ上げてくる。
 髪の間から浮き出た汗が顔を伝って口元まで流れ込んできた。
 一通り吐ききると、蛇口を捻って吐瀉物を流した。気分を晴らす為に顔も洗う。ハンカチは車の鞄の中だったな……と、濡れたままの顔を上げて、鏡の中の自分と目が合った。
 ゲッソリとやつれた、艶のない髪の作業服姿の男。目の下の影はどれだけ寝ても消えることはなくなり、目尻にうっすらと皺も寄っている。日に焼けた肌はキメも粗い。昔に比べるとヒゲの剃り跡も濃くなった気がする。
 僕はこの男をよく知っている。僕の記憶の中にある、僕を殴りつけていた頃の父の顔にそっくりだ。子供の頃はあまり父に似ていないので母親似なんじゃないかと花井さんに言われたが、歳を取り頬の肉が落ちてくると、父と同じような骨格が浮き出てきた。忌み嫌っていたはずの男の血が、この身に流れているという現実を突きつけられて、再び喉を苦い胃液が刺激する。
 まさに、あの男だ。守也くんに暴力を振るって喜んでいるあの姿。首を締めた感触と、体の中を駆け巡った切なさと喜びが、今も指先に残っている。
 そうだ。サリちゃんを殺した時も、僕は、僕の中に父の姿を見た。
 本当にあれは夢だったのだろうか。サリちゃんと同じように、守也くんも手にかけてしまっていないだろうか。あれが夢であったという確証も自信もない。それくらい生々しい感覚だった。
 僕はすぐさまポケットの中から携帯を取り出して、守也くんにメールを送ることにした。バイト中もこっそり携帯を所持しているという彼からの返信は、いつもびっくりするくらいに早い。彼が生きているのなら、すぐに返信が来るはずだ。
 『無事か?』と打ち込みたいところだが、大袈裟過ぎるだろう。『今日も来るの?』と取り留めの無い一文だけ入力して、送信した。
 そうして一息ついて、鏡から目を背けるようにうな垂れた。
 なんてざまだ。サリちゃんを殺してしまってからというもの、僕は相当、精神的に参っているようだ。早く車に戻って、ヒラと張り込みを替わってやらなければ。

「なー、コウちゃーん、マッチョレス家に置いてきていい?」
「おめー、マッチョレスって何だよ! 変なとこで噛むなよなー」
「ぎゃはは! マッチョレス! ぎゃははははははは!」 

 公衆便所の前を、中学生らしき4人の少年達が通った。
 騒々しいが、張りのある肌と声は若さに満ちている。彼等の姿は日差しを受けて輝いて、公衆便所の洗面所で嘔吐した惨めな30過ぎの男の姿とは対照的な強いエネルギーに包まれていた。
 僕もあれくらいの頃は、どうでもいいことにもくだらないことにも笑えていた。いつの間にこんなに物事を面白いと思える感覚が摩滅してしまったのだろう。あの頃に比べて知識も視野も広がった。普通に考えれば、広がった視野の分、楽しみは増えるはずだ。しかし得られたのは、物事を理屈で捉えようとしてしまって素直に楽しめない、凝り固まった心だ。
 僕はかつて、白寿島で犯罪行為を行おうとしていた守也くんをたしなめ、止めさせた。僕らの周りは小さな幸せで満ちていると。その小さな幸せがあれば苦しいことも乗り越えていけるのだと。
 あんなのは、僕が僕自身に言い聞かせてきた詭弁に過ぎない。目の前の小さな幸せで満足出来るほど大人の欲は浅くないし、小さな幸せなどで圧倒的な絶望に抗えるはずがない。守也くんが乗り越えられたのは、彼が若く純粋であったからだ。
 だが、そう考えてふと、60を過ぎているはずの花井さんのことを思い出した。彼女が昔から追いかけているという好きな俳優の話をする時は、まるで少女のように高揚した顔になる。ふくよかな彼女は肌の張りも艶もよく、歳より若く見えたし、明るくて周りを元気にしてくれる人だ。僕も何度彼女の明るさに救われたかわからない。弱々しくて道場の同級生にからかわれて泣いて帰ってきた僕を、生き生きとした笑顔で迎えてくれた母。あの人の生命力は、今の僕よりも遥かに強いように思えた。
 僕も、あの人のように本当に夢中になれるものを見つけられれば、また素直に笑えるんだろうか。人を殺してしまった現実と、身体的なピークを折り返し、これからただ老いていく身であるという絶望の中で。






 守也くんからの返信はまだ来ない。







拍手

PR