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束縛スル里

花信風














 武蔵野線なんて何年ぶりに乗ったのだろうか。平日の午前9時半という中途半端な時間帯の西浦和駅には、周辺に店があまりないのもあって人がまばらだった。
 改札を出ると、久しぶりに見る銀髪頭があった。僕の記憶よりだいぶ短くなったその髪の持ち主は、僕を見かけると破顔一笑して僕の側に駆け寄ってきた。
「お久しぶりっす!」
「久しぶり。その色は相変わらずなんだな」
「あ、髪っすか?
 そっすね。オレ気に入ったものはあんまり変えないタイプなんで」
 ネット上や携帯でのやりとりは交わしていたが、本人と会うのは本当に久しぶりになるので、どういう顔をして見ればいいのかわからず、お互いになんとなくぎこちない。
「……じゃあ、とりあえず行こうか。駅からは近いの?」
 必要以上に会話を続けることもなく、無難な言葉を切り出した。
「近いっすよ。こっちっす!」

 広島から埼玉に出てくることになったというFMSくんから引っ越しを手伝ってほしいと連絡をもらったのはつい3日前のことだった。
 広島からこっちへ来るというのも寝耳に水であったし、理由が「音楽活動のため」というのもまた非常に短絡的な理由だと思ったものだ。
 ただ、彼らしいなとも思ったし、若さゆえの強引さにも微笑ましさを感じた。ナイフを振り回すよりはよほど健全だろう。
 田端の親戚宅に下宿予定の彼の音楽仲間が、引っ越し業者の手違いで出てくるのが一週間遅くなってしまったこと、知り合いの埼玉在住が僕しかいなかったことが、僕に白羽の矢が立った原因のようだ。先月のあの震災で広域緊急援助隊として岩手に派遣されて以来、無性に体を動かしていたかった僕は、言われた日時が当直明けにも関わらずすんなりOKしてしまった。
「にしても、友達は田端なんだろ? なんで遠い西浦和にしたの?」
「やー、こっち家賃、高いじゃないっすか。オレ、半分カンドー状態で出てきたんで余裕ないんっすよ。まだバイトも決まってねーし。
 自分の貯めた小遣いでとりあえず住める物件がここしか無かったんっす……」
「ああ、そういうことか。
 まあ、どこで音楽活動するのか知らないけど、ここなら大宮にも近いし、友達が田端なら京浜東北線沿いのライブハウスなら利用しやすいかな」
「あ、いきなりライブハウスとかムリなんで、カラオケで練習して路上ライブから始めようかと思ってるんっすけどー」
 それを聞いて僕は思わず腕を組んでしまった。
「路上ライブか……。どこか近くで許可してるところあったかな……」
「え? アレって、ケーサツに許可いるんっすか!?」
「通行を妨げる可能性があるんだから当たり前だろ。無許可だと道交法違反になるぞ」
「えええぇ!? そんな、いちいち許可なんて取ってられないっすよ!」
 これだ。こういうところは何も変わってないな。
「……まあ実際は、許可申請なんてほとんどしてないみたいだけどな。大きな駅じゃ申請されても許可が下りないところがほとんどだと思うよ。
 広い駅前のデッキなんかで少人数でやるぶんには見逃してるところはあるようだけど、住民から通報されたらこっちも撤去させざるを得なくなるんだから、よく考えて行動するんだぞ」
「うわーまじかー。どうすっかなー……」
 FMSくんまでもが腕を組んで考え込んでしまった。
「……ああ、そういえば、県の方でストリートミュージシャンの支援事業があったかもしれない。今度調べておくよ。
 どうせやるなら堂々とやりたいだろ?」
「マジっすか!? あざーっす!!」
 そうやって話していくうちにFMSくんも緊張がほぐれてきたのか、表情からぎこちなさが抜けてきた。多分僕も同じだろう。

「あ、ここっす!」
「え?」

 FMSくんから案内された物件を見て、僕は再びぎこちなく顔をひきつらせた。
 昭和感たっぷりの、関西で言うところの文化住宅といった木造2階建てアパートだった。住民の持ち物らしきゴミのような塊や洗濯機が廊下のいたるところに置いてある。
 ところどころ錆びたり欠けたりしている鉄骨階段、蹴ったら壊れそうな薄っぺらい木製ドア。薄汚れた壁には堂々と「江戸桜ハイツ」と書かれている。渋いようなモダンなような、何とも言えないネーミングセンスだ。
 僕が子供の頃には割とよく見かけたようなアパートだが、今時なかなか多くはない。僕が近くで目にする時は、廃墟として訪れる時か、「訳あり」の人物を訪ねる時くらいだった。
「本当にここ?」
「そうっすよ! 家賃激安なんっす!」
「だろうねえ……」
「2階なんで、どうぞー」
 ガン、ガン、と階段を踏み鳴らして上がっていく。いや、別に音を立てたいわけではないのだが、この手の階段はどうしても鳴ってしまうのだ。

 奥から2番目のドアの鍵を開け、招かれた部屋に入る。
 新しくされた畳の匂いに混じって、なんとなく黴びたような臭いが鼻をつく。僕の予想に違わず、入ってすぐにフローリング床のキッチン……いや、台所があり、奥に和室がある。この手のアパートは大体こういったつくりだ。
 流しには後から取り付けたような大きなガス給湯器、その隣には一口だけの簡単なガスコンロが一台。狭いスペースには買ったばかりの洗濯機や冷蔵庫が配送されたままの姿で置いてある。これらの設置を手伝えということだろう。
「古いなあ。築40年くらい?」
「45年って言ってました」
 そうか。こうなってくると逆にレトロ感が楽しくなってきてしまうのは廃墟マニアの性か。
「ちょっと見て回っていい?」
「いっすよ!」
 僕は手近なドアのうち手前の一つを開けた。
 そこはトイレだった。タイル張りの壁に、和式だったものを無理矢理洋式にリフォームしたような、一歩上がったところに備え付けてある洋便器。
 そしてその隣のドアの向こうは、これもまたタイル張りの浴室だった。
「うわあ……! 懐かしいな、この風呂釜!」
 バランス釜というやつだ。真四角に近い浴槽の隣に備え付けてある長方体の機器にシャワーやつまみ等が付いている。
「実はそれ、ぜんぜん使い方わかんねえんすよ。どうやるんっすか?」
「これはね、こっちの元栓を開いて、ここのつまみを押し込みながらここのレバーを数回回して着火させて、それからつまみをねじるとボウッと火が付くのがこの小窓から」
「あっ、ちょっと! 
 ちょっと覚えきれないんで、後でやってみてください。ガスだから間違ったらこえーし」
「……あ、うん、そうか。そうだよね」
 見たこともないような世代では仕方ないか。ああ、年の差を感じるなあ。
「……それはいいけど、追い炊きするときにかき混ぜる棒が無いと適温にするのが難しいぞ。火傷するかもしれないし」
「え? 棒なんかいるんっすか?」
「これは今の湯沸かし器と違って適温になったら止まるようには出来てないから、自分で頃合いを見て止めないとお湯が煮えたぎって沸騰するんだよ。しかもお湯の上下で温度差が出来るから、棒でうまくかき混ぜながら様子をみないと」
「結構めんどくさいんっすね……」
「火を止めるのを忘れさえしなければどうってことないし、慣れるもんだけどね」
 子供の頃、花井さんが帰宅してしまった夜、自分で何度も沸かした記憶が蘇る。そのうちリフォームしてしまったが、子供心にあちこちつまみをねじったり回したりするのは機械をいじっているようでちょっとワクワクしたものだ。
 子供一人で入るには深くて大きかった風呂釜も、こうしてみると小さなもんだった。僕一人が入っただけでも大洪水が起きそうだ。
「その、かきまぜ棒? よくわかんないんで、後で買い出しにもつき合ってもらっていっすか?」
「ああ、いいよ」
 しかし、これは手伝いに来るのが僕で良かったかもしれない。同年代の友達では使い方がわからない可能性もあっただろう。4月とはいえ水しか出ないシャワーでは可哀想だ。
 とはいえ、これではまるで保護者だ。一回り年下の弟やいとこでもいたら、こんな風に引っ越しの面倒を見るようなこともあったのかもしれない。父のただ一人の兄は夭折してしまったらしく、留萌にいる祖父母とは疎遠であったのでろくな親戚づきあいも無かった僕は、そう思ってこの状況を少し楽しんでいた。

 奥の和室のベランダに出入り出来る大きな窓には、茶色いカーテンがかかったままだった。薄暗い室内を照らすためにFMSくんは照明の紐を引っ張った。
「このカーテン、前の人が置いてったらしいっす」
「それはそうと、この穴は……?」
 カーテンの上……天井と窓の間の壁にぽっかりと直径15センチ程度の穴が空いており、向こう側の薄青色の空が見えていた。
「あ、なんかそこにエアコン取り付けてあったらしいっす。でも前の人が個人的に付けたもんで、引っ越す時に外して持ってったらしいんすよ。オレもまだエアコン買えるほど金無いんで、そのままにしてんすけど」
 なるほど、室外機と繋ぐための穴か。
「にしたって、大家さん、塞ぐとか何かしてくれなかったのか?」
「そっすね……。ここ、敷金とか無しで入れるとこだったんで、大家さんも金が無かったのかもしんないっすね。オレがエアコン取り付けると思ってそのままにしてくれたのかもしれないし」
「どうするんだ? 今はいいけど、夏場は暑いだろうし、虫も入ってくるかもしれないぞ。冬は絶対に寒いし」
「ムシはイヤっすね……。あ~、それまでにエアコン買えっかな~」
「本当にこんなところに住めるのかい? こういうところだから、住民トラブルもありそうだし」
 壁も薄そうだから、騒音問題もあるかもしれないし。
 そう言いかけて、ふと思いついたことを口にしてしまった。
「……良かったら僕の家、部屋もあるし、これからあんまり暑くなるようだったたまには遊びに来てもいいよ。
 防音対策がしっかりしてるマンション買ったから、多少なら音楽の練習も出来ると思うし。
 ここじゃ何も出来ないだろ?」
 半分は社交辞令で半分は同情心だ。勘当状態で出てきたというが、それでも自分の夢を叶えるのに生活面で全く親に頼ろうとしない姿勢は賞賛されていい。
 僕なんか父とほとんど会話もしないまま大学の学費まで出してもらったのだ。今時、ミュージシャンなんて夢を見るのはバカだとは思いつつも、堅実に歩んだまま公務員になったバカ堅実な自分には無いものに羨望すら感じる。
「えっ!? いいんっすか!? オレ、マジで行っちゃいますよ!?」
「うん、いいよ」
 お互い気楽な一人暮らし同士なのだから、気に病む必要もない。
「やー、RUINS見つけてよかったー。ペケ蔵さまさまっすね! オレも本当は、初めての一人暮らしがこんなとこでちょっと不安だったんすよね。
 あ、でも見てくださいよ、これ」

 そう言うと、FMSくんは茶色いカーテンを引いた。
 部屋の照明以上に眩しい外の光に目が眩む。
 しかしそれも一瞬のことで、すぐに目が慣れて、ベランダのすぐ外にたたずむ2本の木の枝を見ることが出来た。
 黒々とした幹に、白い花がぽつぽつと付いている。

「あ、桜か……」

 見ると、アパートの裏側は公園だったようで、ベランダ側に計5本ほど生えている。これがアパート名の由来だろうか。
 まだ満開とまではいかないが、それでも目を楽しませる程度には咲いていた。
「ね? いいっしょ? 満開になったら圧巻だと思うんすよ! 窓閉めてても部屋の中から見えるんすよ! サイコーっすよね!」
「あ、でも、僕は桜は」

 嫌いなんだ。

 そう言おうとしたが、明確な否定の言葉は口に出しづらく、言葉に詰まった。
「……え? もしかして、好きじゃないんですか!?」
 それでも察してくれたFMSくんが細い目をまん丸くさせて驚いている。仕方ない。はっきり言おう。
「うーん……どうもね。弱々しすぎてね。
 確かに綺麗なんだけど、綺麗なのは一瞬ですぐに散っちゃうし、散った後の道路は汚いし、交番勤務の時も花見客が厄介事を起こして呼ばれることが多かったし、良い思い出が無いんだ。山の方で咲いてるヤマザクラならともかく、ソメイヨシノはね・・・・・・」
 桜の花びらが散っていた小中高の入学式。当然のように父母が参加し、校門などで家族一緒に写真を撮る光景の中、僕はいつも一人で帰っていた。
「信じらんねー! 日本人で桜が嫌いとかマジありえねー!」
 そんなにあり得ないだろうか。
 ほとんどの人は桜を描く時に桃色のペンを取るのだろうが、僕はこのソメイヨシノに桃色を見出せないのだ。ヤマザクラにはあるほのかな桃色がソメイヨシノには無く、雪のような白にしか見えない。
 そして、種をほとんど付けないので人の手でしか増えず、全てクローンであるという歪みも、その白をより不気味に感じさせる一つでもある。
 厳しい寒さの中で咲く梅の白には孤高の強さがあるが、春たけなわの暖かい空気の中のその白は、冷たい。
 ましてや、人の手をかけなければ100年も立たずに全滅してしまうという。そんな手のかかる「美」を、僕は好きにはなれなかった。

 「死」だ。

 ソメイヨシノには、自身の「生」の連鎖が無いのだ。種を付けない花に何の意味があるのだろうか。この木も、きっと満開になったらすぐに散ってしまうのだ。満開になる頃にはいつも非情な雨が降る。
 青いビニールシートが敷かれた上に整然と並べられた白い布の山。誰かの泣き声。肌を刺す寒さ。泥と油と死臭の混じった臭い。
『お巡りさん、娘の顔を綺麗にしてくれてありがとう』
 おばあさんが目に涙を溜め、震えながら僕に言ったのだ。
『あたしは娘に会えて幸せだよ。まだ皆さん、見つからないもの』
 濡れて散った花びらのイメージと、先日の記憶がかぶってしまう。ほんの数日の派遣で心身共に疲れ切った。感謝の言葉を伝えられ、自分が警察官であるということの誇りと使命感に燃えた時間ではあったが、出来ればもうあんな光景を二度と見たくはなかった。
「ひねくれてますよ、ペケ蔵さん!」
「……そうかな」
 だってずっと広島にいた君は、大勢の人の死を画面の文字を通してしか見ていないだろう?
 そう言ってやりたかったが、それは単なる八つ当たりなのかもしれない。
「そっすよ! 綺麗なものは綺麗でいいんす。弱々しくたって毎年咲くんすから!
 弱くても頑張ってるんすよ、こいつらは!」
「……」
「ばーっと咲いてばーっと散る。けど、またよォけ咲くんが日本人の魂じゃ!」
 興奮しすぎて途中から方言まで出てしまったFMSくんに苦笑いし、脳裏に浮かんだイメージを振り払った。
「……うん、まあ、そういうことでもいいかな。
 今の日本には、桜みたいに心を慰めてくれる綺麗なものが必要かもしれないしね」
「ほうじゃ……でしょ!?
 だから、満開になったらまた来てくださいよ。あと数日で満開になるじゃろし」
「うん、何事もなければね。まだ署内もごたついてるし。
 じゃあまず、何から手を付けようか」

 僕が桜を好まないからといって、桜見たさにこの部屋を選んだ彼の素直な気持ちを踏みにじってはならない。
 刃物を楽器に持ち替え、前を向いていこうとする彼を出来るだけ助けてあげたかったのだ。








         ◆








 コツン、コツンと向こう側から壁を叩く音がする。
 隣の新入りさんは寂しがり屋のようだ。刑務官が見回りに来ては執拗におしゃべりしようとするし、こうして壁を叩いて僕とコミュニケーションを取ろうとしてくる。そんな行為は見つかればすぐに咎められるのだが。
 だが僕も本を読み終わって暇を持て余しているので、コツンコツンと叩き返してやった。向こうは嬉しそうに再びコツコツ叩いてきた。すかさず返すと、また返ってくる。
 それがだんだんと妙なリズムになってきて、そうやって意志疎通していることが楽しくなってくる。隣には、まだ生きている人間がいるということを音で感じられる。
 静かな環境に慣れてくると、季節や時間にも音があるのだということがよくわかってきた。
 朝は鳥の声、昼は車の通過音や工事など人間の立てる音、飛行機の音、夜にはそういった音も眠って静かだ。
 春はその鳥の声にも色めいたまろやかさがあるし、夏の虫は命の尽きるまで生き生きと歌う。秋は乾いた葉の擦れ合いがさざ波のようで心地よく、冬は凛とした空気がより多くの音をはっきりと届けてくれるが、雪が降るとそれらは吸収されてしまって眠るどころか死んだような静けさになる。
 ただ、収容されている人間の中にはラジオの時間も待てず、そういう静けさに耐えられない者もいて、時々叫んだり何かしゃべっているような声も混じる。壁や扉を激しく蹴る音もして、その後には数人の刑務官の足音と共に騒がしくなる。
 僕は決してそれらを疎ましく思わず、それも生きている音の中の一つだとして受け入れた。情報の多くを絶つことでより研ぎすまされた僕の耳には新鮮な刺激となって入ってくる。

 ……足音だ。

 これは、宮尾刑務官の足音と井上刑務官の足音だろう。巡回の時間ではないはずだが、僕の部屋の前で止まる。
 いよいよだろうか?
 いや、この時間は違うはずだ。何故だろう。ノックのやりとりを咎めに来たのだろうか。
 鍵を開ける音に合わせて僕は扉に向かって正座した。
「337号、面会」
 左眉下の大きなほくろが印象的な井上刑務官が、僕を見てそう告げた。
「……面会?」
 誰だ。死刑囚に面会出来る人間など、家族くらいのはずだ。祖父母はもう亡くなったし、あとの血縁と言えば……。
 僕は井上刑務官に連れられて面会室に向かうことになった。
 面会室では先に面会している人がいたようで、「びっくり箱」と呼ばれるトイレの個室ほどの広さの待機ボックスに入れられて待つことになった。
 椅子代わりの板に座って、のんびりと待つ。
 そういえばここに入所することになった時、この部屋で恥ずかしい目に合わされたなあ。「大丈夫大丈夫、こっちはいつも見てて何とも思わんから」なんて、何の慰めにもならないことを言われたっけ。
 そんなことを思い出してニヤニヤしていたが、次第にお尻が痛くなってきたので体を動かそうかと思って立ち上がった。
「337号、時間だ」
 井上刑務官に呼ばれて、面会室前の小窓から中を覗く。
「姉さんで間違いないな?」

 姉さん。
 ああ、あの人か。

 僕は小窓から記憶よりもだいぶ老けた印象の女性を見た。度の合わなくなってきた眼鏡ではよくわからない。
「たぶん、そうだと思います」
「曖昧じゃ困るんだけど」
「そこまで一緒にいなかったので、顔も忘れました。だいぶ歳を取ったみたいだし」
「……仕方ないな」
 僕は面会室に入れられ、女性のガラス越しの対面席に座らされた。僕の横に井上刑務官が座って、面会内容を記録する準備を始める。
「……久しぶりですね、まつ香さん」
 僕が他人行儀にそう言うと、彼女は一瞬顔を歪めて僕を見た。今日は着物ではない。ラウンドネックのニットに、伸びた髪を一つにまとめていた。
 頭から胸元まで舐めるように視線を落とされる。僕の生活が気になるのだろうか。
「ご覧の通り、僕は元気ですよ。
 エアコンは無いけど服は自由に着られるし、たまには映画も観られるし、運動も……そうそう、僕、縄跳びがあんまり得意じゃなかったんですけどね、この歳になってはやぶさ跳びが出来るようになったんです。地道にやってみるもんですね。本もゆっくり読めるし、案外気楽に暮らしてますよ。
 そうだ、支援者の中でね、僕と獄中結婚したいなんて人も何人か現れたんですよ。政治的に利用されるのが嫌だったから、みんな断りましたけどね。今まで出来なかったのに拘置所に入ってから結婚なんて、笑っちゃいますよね」
 僕は気まずくて間が持たないので言いたいことだけ言って笑った。
 まつ香さんは軽く目を伏せながら僕の話をじっと聞いていた。この人は何故、今更僕に面会なんてしに来たのだろうか。
「……」
 この人は。
 この人は、僕の肉親であると共に被害者遺族でもあるのだ。受付もよく面会を許したものだ。
 僕の気楽な物言いが癇に障っただろうか? 何も言ってくれない。
「あなたは……」

 痩せましたね。

 白髪も増えて、顔の陰も深い。

 僕がそうさせたんでしょうか? 連続殺人犯の被害者として、加害者の親族として、肩身の狭い思いをしているのでしょうか?

 それ以上言えなくなっていると、まつ香さんは意を決したように震える声で言葉を紡ぎだした。 
「……今まで」
「え?」
「今まで、放っておいて、ごめんなさい……」
「……」
 まつ香さんは、泣かずまいと唾を飲み込み、小さく息を吐いた。
「ごめんなさい……! ここに来るまでにっ……、あなたに言おうとしたことがたくさんあったんだけど……! あなたの顔を見たらっ、悔しさとか、悲しさがいっぱいになって、うまく言えない……っ!」
「……」
 それは僕も同じだ。これまでにも様々な思いを抱えてきた。それをやっと吐き出せる相手が来たのかもしれないのに、何を言っても陳腐になってしまいそうだった。
 言葉というのは実に不便だ。口に出すと自分の思いは軽くなるのに、時には相手を縛る呪詛にもなる。唯一の血縁でありながら縁の薄いこの人が、僕の思いを受け止めきれるかどうかもわからない。もしかしたらより一層彼女を不幸に突き落としてしまうことになるのかもしれない。
 だが、面会出来る時間は限られているのだ。彼女が僕に何を言いに来たのかはわからないが、一分一秒でも無駄には出来ない。
「……公判の時」
「え……」
「公判の時、あなたの姿はありませんでしたね。
 僕は被害者家族の方達に、様々な呪いの言葉を吐かれました。
 当然だ。僕は自分の快楽のためにたくさんの若い人達の命を奪った」
「……」
「……だけど、非行に走らせるほど子供達につらい思いをさせておいて、それでも保護者ヅラをする親達も身勝手だ。失って泣くくらいなら、最初から大事にすればよかったのに。
 そうは思いませんか?」
「それは……」
「あの子達はみんな自分の周りの世界を恨んでいて、自分から破滅に向かいたがるような傾向が見られました。
 昔の僕のように。
 結局僕には、そんな風に非行に走れるような度胸は無かったけど」
「……父さんはね、私のことは、決して殴らなかったの」
「え?」
「本当よ。
 あの日、あなたがお父さんのことを語るのを聞いて、あなたが弟だと確信したんだけれど、当時のことは、あなたよりも大きかったからはっきり覚えてる。
 お父さんが手を上げていたのはあなただけだったの。お母さんはそれを庇おうとして、怪我をしていた。
 お母さんはあなたを守るために里へ逃げたのよ」
「僕だけ? それは……」
「私が殴られなかったのは、女の子だったからだわ。お父さんは言っていたもの。『男がそんなに泣くんじゃない』『強くなれ』って」


 ああ。


 ああ……。

 ……そうか、やっぱりそうだったんだ。

「そんな前時代的なジェンダーの押しつけなんて、いい迷惑だ」
 僕は苦笑いして見せた。まつ香さんは笑わなかった。
「……なんとなく、そうだったのかもしれないとは気づいていたんです。
 親父の元へ戻された僕は、問答無用で柔道や剣道をやらされましたから。
 大人になって、自分が警察官になって、色々とわかったんです。
 若かった親父が第一線で活躍していた60年代後半から70年代にかけては、毎年のように殉職者が出たように、警察官にとっては受難の時代だった。過激派のテロやゲリラも横行していて、警察官の家族が犠牲になることもあった。
 親父は刑事課に配属される前、関東管機として大きな事件に派遣されたこともあったようです。相手は平気で武器を向けてくるんだから、戦に駆り出されるのと同じだ。
 それなのに、市民の中にはそういったテロリストに同調して権力である警察を嫌ったりする人間も少なくはなかった。むくわれないと思っていた気持ちもあったかもしれません。
 親父にとっては、暴力や死が身近だった。正義や理想の中にも、どうしようもない理不尽な暴力が存在することを肌で知っていた。暴力同士のパワーバランスの上で、辛うじて平和が成り立っているにすぎないって。
 だから男に生まれた僕が泣き虫で弱々しいことに焦りでも感じたんでしょう。いや、殴るくらいだからイライラしたのかもしれない。こんな僕では、この世界でとても生きていけないと思ったのかもしれない。父親として、強くさせなければならないってね。
 ……不器用ですぐに手が出る、まさに昭和のオヤジだ。子供にとっては迷惑でしかないけど、多分そういうオヤジは他にもいたはずです。親父自身も、きっとそうやって育ってきたんでしょう。
 違ったのは、……僕だ。そういう父の姿を歪んだ形で記憶して、最後まで許さなかった僕だ」
「……いいえ、お父さんにだって、きちんと言葉で伝えてあなたと和解しようとしなかったんだから、罪はあるわ。
 私も人の子の親になって、つい子供に手を挙げてしまう親の苦しみがわかったけど、それでもあなたに対する父さんの態度はひどすぎると思ったし、わかり合える機会はあったはず」
「ずっと僕が拒否してきたんです……! 親父が何かを言おうとすると席を外して、進路とか……、大事なことも一言二言で済ませていた。
 向かい合おうとしなかったのは、僕自身だ……!」
 僕は感情が昂ぶって震える拳を握りしめた。
「どうして許せなかったんだろう……!
 素直に親父を許すことが出来れば、もっと楽に生きられたかもしれないのに」
「ごめんなさい……!
 あなたがどこにいるのかわからなくて、迎えにいってあげられなかった……! お父さんのところにいるのだと知っていたら、すぐにでもあなたに会いに行ったわ。
 あの日も、もしやとは思ったけれど、確信が持てなくて……! もっと早くにあなたに気づいていれば、きく香は」
 きく香、と聞いて、僕は彼女を見続けることが出来なくなり、目を伏せた。
「……。
 ……あなたは、私の記憶の中のお父さんとそっくり。お父さんはもっときつい目をしていたけれど、うまく本心を出せないところとか、本当にそっくり。
 同じ警察官への道を選んだのは、あなたなりの歩み寄りだったんじゃなくて?」
「……」
 何も……何も知らないくせに……。
 暗い感情が渦巻いて、拳だけでなく体全体が小刻みに震えた。
 そんな僕の背を誰かが触れた。井上刑務官だ。この人は僕よりはやや年上だろうが、居丈高な刑務官が多い中でも珍しく親身になってくれるタイプだった。
 人の温度に触れて少し落ち着いた僕は、再びまつ香さんと目を合わせた。
「ねえ、マコちゃん。もう、再審請求する気はないの?」
 マコちゃん。
 懐かしい呼ばれ方だ。昔、この人にそんな風に呼ばれていたんだったな。
「再審請求出来るほどの証拠や証言はありませんし、6人も殺した事実に代わりはないですから、死刑は覆せませんよ」
「でも……」
「本当はね、ここへ来る前とか、来た直後に自殺をはかったこともあったんですよ。
 井上先生、その説はご迷惑をおかけしましたね」
 井上刑務官はいやいや、と手を振った。
「でも、僕がそうやって自分で死んだところで、遺族の気は晴れないでしょうから。僕が法的に殺されることが必要なんです。ここで過ごすうちに、そう思えるようになったんです。
 だからこうして、執行日が来るのをのんびり待ってるんですよ」
「怖くはないの?」
「……怖くないはずがないじゃないですか」
「そう。そうよね……」
 まつ香さんは口を閉じた。よく見ると唇の端が荒れている。この人も胃が悪くて口角炎になりやすい体質なのかもしれない。
「あの、そろそろ時間……」
 井上刑務官が申し訳なさそうにトントンと腕時計を指した。 
 それを聞いて、まつ香さんは慌てて顔を上げた。
「待って! 遺骨はっ、遺骨の引き取りはどうなっているの?」
「遺骨……」
 今の僕にとっては生々しい言葉だ。
「どうせなら、献体に申し出ようと思っています。他に縁もありませんし」
「それなら、私に引き取らせてください。里にお母さんのお墓があるの。そこに埋葬するわ。
 お屋敷のソメイヨシノの傍よ。満開になると、すごく綺麗なところなの」
「ソメイヨシノ……」
「私はあなたを許します。私のために。
 さっきあなたも言ったけど、許すことが出来れば楽に生きられることもあるでしょう? 夫にも娘にも先立たれて、もう執着するのは疲れたわ。
 だからこれからは、被害者遺族としてでなく、あなたの家族として生きていきたいの」
「……」
「すみませんね、今日はもうこれで」
 井上刑務官はまつ香さんに会釈をした。
 今日は。
 明日は無いのかもしれないのに、簡単に言ってくれるな。でも刑務官がそう言うからには、僕は少なくとも明日の一日は生きられるのだろうな。前日には彼らには執行予定を知らされているはずだから。
 そんな風に刑務官達の動向を探っては、ああ今日もまた一日生きられる、と思うのを、何度も何度も繰り返している。
「また来ます。
 差し入れもするから、何かあったら言ってね」
「……はい」
 僕はそれ以上何も言わず、軽く頭を下げると、井上刑務官に促されるままに部屋を出た。
 廊下を歩きながら、僕はこれ以降の面会は拒否しようと決意した。家族や外の世界とのつながりが出来ることで、静かに心穏やかに死んでいきたいという願いが揺らいでしまいそうだった。
 ドクン、ドクンと脈を打つ僕の心臓。これは僕の意志で動かしているわけではない。他の生物もそうであろう。では一体、僕らを生かしている意志とは何なのだろう。
 僕は全ての生命を愛おしいと思った。しかし約束された死を目前にして、今は僕自身が自分の命の存在を強く実感している。
 
『もう執着するのは疲れたわ』

 ……あなたはそれですっきりするのかもしれない。でも僕にだって捨ててしまいたい執着心はあるんだ。やっと気持ちを抑えられるようになってきたというのに、今更出てきて掻き回さないで欲しい。生き分かれた弟の、明日をも知れぬ死刑囚の最後のわがままだと思って放っておいて欲しいのだ。
 しかし、ただ拒否するだけでは再び彼女を不幸にしてしまいそうなので、明日があったら改めて丁寧に釈明の手紙を書こうと思った。
 ああ、そういえば、結局謝罪の言葉を伝えられなかった。許すとは言ってもらえたが、だからといって謝らなくていいというわけではない。対面で謝罪する機会を無くしてしまうのは、やや心残りではあるが。

「良かったねえ。遺骨の引き取り手が出来て」

 井上刑務官が何の邪心も無さそうにそう言った。
 死刑囚のほとんどは遺体の引き取りを親族に拒否され、無縁仏として行政地区の墓地に埋葬されるらしい。それから比べれば、引き取らせて欲しいと願い出る人間が現れるだけでも幸福なことなのだろう。
「……そうですね」
 了解したわけではない。ただそういう一つの選択肢が出来ただけだ。

 ソメイヨシノ……。

 僕が死のイメージを抱いていた花の下で、眠る、か。
 それも面白いかもしれない。

 あの里で。あの石畳の道を見下ろしながら、子供の頃の思い出と、母のぬくもりと共に、土に還るのも。






『ばーっと咲いてばーっと散る。けど、またよォけ咲くんが日本人の魂じゃ!』






 何故かその時僕の脳裏に浮かんだのは、満開の桜ではなく、あの時あのアパートで見た五分咲きの桜だった。










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