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束縛スル里

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ミドルノート 後編





       ◆




 バス車内に貼られた広告に映る深緑の山並みを見て、何故だか懐かしい気持ちに捕らわれる。
 昔から山は好きだった。山へ足を運ぶとどんなに陰鬱な気持ちでも晴れたし、街育ちであるのに山村の廃墟には不思議と懐かしさを覚え、好んで写真を撮った。

 懐かしさ。そう、懐かしさだ。

 稀に、江戸時代のような古びた様式の建物に囲まれた石畳を走り回る夢を見る。夢の中で自分は小さな女の子になっていて、姉に手を引かれながら嬉しそうにしているのだ。そんな僕らに、着物を着た女性が遠くから声をかけてくる。顔までははっきりとは思い出せない。その夢を見て目覚めると郷愁をそそられ、再びその夢のまどろみの中に落ちていきたい気持ちになったものだ。
 建物や、女性が着物を着てる様子から、現代のものとは思えない光景だった。おそらく、大正か、昭和初期か……それくらいの時代が舞台の映画か何かを、きっと幼い頃に観たのだろう。そのイメージが鮮烈に脳に焼き付いて、自分のことであったかのように思い出されるに違いない。僕には幼少期の記憶がほとんどないから。浮かんでくるのは、殴られて痛いという記憶と、泣いている自分の姿だけだ。
 ……そういえば、いつから僕は泣かなくなったんだろう。
 今でもこんなに苦しくて、泣けるものなら、泣いてしまった方がスッキリしそうなものであるのに。

 最寄の停留所に着くと、自宅マンションまでの帰路を急いだ。普段ならばすぐ傍のスーパーで食料を買い込んでいくのだが、それよりも家に守也くんがいるのかどうかが気がかりだった。
 結局守也くんからメールの返信は来なかった。
 それゆえ、僕は彼までも殺してしまったのかもしれないという不安に煽られて、帰宅出来るような時間になるまで気もそぞろでいた。助かったのは、ヒラが課長に僕の体調が悪いようだと口を利いてくれたことだ。それで早退させてくれるような生易しい職場じゃないが、僕が心ここにあらずといった状態であっても周りが配慮してくれた。
 マンションに近づくにつれて、動悸が激しくなる。どうか、彼までも手にかけてしまったなんて悪夢が現実のものとなりませんように。
 マンションの窓の明かりが無数に見える位置まで来て、僕は少しほっとした。僕の部屋の電気が点いていたからだ。もしかしたら、来ているのかもしれない。彼はきっと生きている。
 いや、安心は出来ない。僕が単に電気を消し忘れて出てきたという可能性もある。僕は小走りでエレベーターに乗った。このエレベーターはこんなにも遅かっただろうかと、切り替わる階数表示を見ながら焦れる。
 13階までたどり着くと、僕は廊下に誰もいないのをいいことに全速力で自分の部屋の前まで走った。
 走りながら鞄から取り出した鍵でドアを開ける。
 靴を脱ぎ捨ててリビングのドアを開けた時、そのソファで寝転ぶ守也くんの姿を見た。

「あ、オジャーシッテあーす」

 全身で溜息を吐いた。
 守也くんは僕のそんな様子を見て表情を焦りの色に変えた。
「な、なんすか!? 今日オレ来たらまずかったっすか!?」
 僕は鞄を床に下ろし、ジャケットを脱ぎながら首を振った。
「いや、……そういうわけじゃないんだけど……」
 ああ、生きている……生きている……。
 自分が再び過ちを犯したわけではなかったことがわかり、肩の力が抜けた。冷や汗でべたついた体と倦怠感を払拭したくて、今すぐにシャワーでも浴びたい気分だった。
 しかし、夜食の材料の買出しをしてこなかったので、食べるものが何も無い。
「……また、おごりを期待して来たのか?」
「あー……ハハッ、いいエフェクターを見つけたんっすよー。それに仕送りとバイト代つぎ込んじまって……。あ、そーそー、携帯も止められちゃったんでマコっさんに連絡できなかったんすよー」
「……なんだ、そういうことか……」
 まったく情けない。そしていいようにたかられる僕も情けない。情けないが、今日はむしろ彼が生きていることに感謝して逆に奢ってやりたい気分だった。
 とはいえ時間も遅いし、疲れきってレストランなどに行く気も起きなかった。
「もう今日はコンビニめしで勘弁してくれよ。……というか、エフェクターなんか買う前にちゃんと弾けるようになれよ……」
「うっす! オレ、形から整えないとやる気起きないタイプでー」
 やれやれ。……まあ、不器用なようだが彼の左手の指のマメを見る限り練習はきちんとやっているのだろう。僕の部屋に来てもボイストレーニングの為に筋トレを欠かさない姿勢にも好感が持てる。普段の生活はだらしがないが、好きなことになら本気になって努力出来るタイプなのだろう。
 ……ああ、そんなことで甘くなっていいように利用されてしまうんだな、僕は。
 容疑者の言葉を簡単に信用してしまったり、同情してしまったり、何度失敗して上司に怒られてきたかわからない。もっと威圧的に話さなければ馬鹿にされてしまうぞとも言われたが、この歳までに形成されてしまった性質はなかなか変えようがない。

 2人で近くのコンビニに向かい弁当の買い物を済ませると、マンションへ戻る道すがら、肉まんを手にした守也くんが怪訝とした顔でいた。
「マコっさん……」
 深刻そうな顔で守也くんが呟く。
「こっちのコンビニってもしかして、肉まんに酢醤油付けてくれないんすか?」
「は? 酢醤油? ……そんなの無いよ。何か付いてくるなんて聞いたことないけど」
「オレんちの方だと肉まんに酢醤油とかカラシが付いてくるのは当たり前なんすけど……。こっちは違うんすね……。
 なんかすげーカルチャーショックっすよ。酢醤油付けない肉まんなんてうまくないっすよマジで!」
 なるほど、彼の地元の方ではそんな売り方をしているのか。こっちでは何も付いてこないのが当たり前だが、もしかしたら各地域によって色々と付いてくるものなのかもしれない。
「酢醤油くらいうちで用意出来るから、な?」
 しかし、肉まんに酢醤油というのも聞くだけで美味しそうではある。守也くんに分けてくれと言うのも何なので、今度機会があったら試してみるか。今度、という自由な未来があとどれくらい残されているのかわからないが。

 リビングに戻ると、テレビを付けて弁当をテーブルに広げた。さすがにチャンネル主導権は僕にあるので、すかさずニュースに切り替えた。フィッチ・レーティングスが日本の格付けを「安定的」から「ネガティブ」に変更した、など、震災等も関連した暗いニュースが続く。
 ニュースを聞きながら、『廃村で遺体発見』や『女子中学生が行方不明』等のニュースが無いか、若干緊張する。緊張はするが、逃してはいけない情報だった。
「なんかアレっすね。この先日本どうなっちゃうんっすかね」
 テレビを観つつ、カルビ丼を頬ばりながら守也くんが言った。
「そうだなあ……」
 日本どころか、自分の明日すらわからない。このまま逃げおおせられるとは限らないし、僕自身が呵責の念に耐え切れるかどうかもわからない。
 幕の内弁当の中の漬物をつまんでふと箸を止めた。
 そういえば一人で漬物工場の廃墟に行ったことがあった。食材が放置されたまま腐乱し、とんでもない異臭を放っていて、とても長時間いられないような酷い有様だった。あの時は気絶してしまいそうなほどの刺激臭に我慢できなくて僕もすぐに立ち去ったのだった。
 サリちゃんは便所の汲み取り口に押し込んだが、あの漬物工場の漬かったままの漬物の中に置いておくだけでも人の足を遠ざけることが出来たかもしれない。あんな臭いのする容器をわざわざ開けようとする者もおるまい。死臭をも紛らせてくれそうな悪臭だった。もし次があるのなら、あそこに……。
 ……次?
 次だなんて、何を馬鹿なことを。
 次などない。あの一度だけで充分だ。サリちゃんの肉を貫く感触。体にかかる生暖かい血液。目を閉じれば今でも鮮烈に浮かんでくる。サリちゃんの目から光が消えた時の、あの、全身を貫くような……快感。
 
 ……快感だ。

「マコっさん」
 ハッとした。守也くんが僕の箸の先の漬物を見ている。
「コンビニ弁当あっためると漬物も熱くなんの、すげー嫌っすよねー」
「……そうかな? あんまり気にしたことなかったな……」
「いやー、やっぱ冷たく冷えた漬物をアツアツのご飯で食べるのが最高っすよ! 漬物付けるならマヨネーズの袋とかみてーに別にしといて、あっためる時は外すべきだと思うんすよね、オレは!」
「はは、変なところで渋いよな、守也くんは」
 細身の割になかなか食べ物に対して執着心もこだわりも強い。しかしながら奢った方としては美味しそうに食べる様子を見せてくれるのは嬉しい限りだ。
 そうだ。僕はこうやって力強く生命力に溢れた行動を見るのが好きなのだ。動物も植物も人間も、僕の身の回りで生きているのだと思う瞬間に喜びを感じる。愛しく、尊さを感じる。
 父から暴力を受け続けていた日々、泣きながら庭の植物の成長を見て心を慰めていた。父に植物を愛する趣味は無かったので、きっと母が植えていったものだろう。それを花井さんが、枯れないように上手に手入れしてくれていた。きっとその頃からだ。僕がそういった周りの生き物に愛情を感じるようになったのは。
 以前付き合っていた彼女は小食だった。彼女が物を残す様子を見る度に、僕は残念な気持ちになっていた。僕は彼女の体形に対してそのままで充分だと言っていたのに、彼女はいつも『もっと痩せたい』『こんな太い足じゃイヤ』と口にしていた。別れたのはそれが原因というわけでもないし、僕はどちらかと言うと振られた方だが、今思うとそうやって僕の前で自然体でいてくれないことに若干の悲しみを覚えていたのかもしれない。

 しかし……

 そうやって得られる喜びが、必ずしも『生きている状態』から得られるものではなかったとしたらどうだろう。

 僕のこの感情は『生命活動そのもの』に対する憧憬ではなく、『生命』に対する憧憬であったら?
 生命力を愛するがゆえに、生命が尽きる瞬間にもっともその生命の崇高さを感じて喜びを得られるのだとしたら?

 僕は、サリちゃんを刺した時と、守也くんを殺す夢を見た時に体中を駆け巡った感情の正体を掴みかけているのかもしれない。




       ◆




 サリちゃんを殺してから、2週間が経った。
 何の捜査の手も及んでいないが、もしかしたら一般家出人として扱われたのだろうか。それとも前々からプチ家出などを繰り返していたりして、親が今回もそれだと思って捜索願を出していないのだろうか。いや、特異家出人だとみなされて捜査が始まっていたとしても、未成年の場合は友人や先輩の家で見つかることが多いから、まだそれらを当たっている途中なのかもしれない。あれこれと不安は尽きない。
 唇の端に出来た口角炎を気にしながら、僕は出前で取った海鮮丼を口にしていた。サリちゃんを殺した直後はあまり食が進まなかったが、最近は割と食べられるようになった。若干顔がやつれたとヒラに指摘されてからはなるべくチョコレートなどの甘いものも摂るようにしている。
「最近自分、肉が食えなくなってきたんですよね」
 隣のデスクでヒラが愛妻弁当のミートボールを箸で挟みながら言った。
「まだそんな歳じゃないだろ」
 僕も以前ほどは脂っこいものや肉類に執着が無くなり海産物が好きになってきたが、僕より若いヒラが言うと若干嫌味にも感じてしまう。
「うまい肉ならいいんですよ。でも冷凍食品の肉じゃ味気ないですよ。毎日だからなあ。
 しかもカミさん、家で魚料理あんまりしてくれないんですよ。グリルを洗うのが嫌だとか、魚に包丁通すのが嫌だとか、手に生臭い臭いが付くとか」
「作ってもらえるだけでもカミさんに感謝しろよ。こっちからしたら手作りってだけで羨ましすぎるぞ」
「いや、結局自分のなんて子供の弁当のついでなんですよ! 最近はなんでも子供優先です!
 だからおかずもみんな子供向けで量も少ないし……。ミートボールですよ? 小学生じゃないんだから……。
 自分も海鮮丼食べたいですよ。明日は弁当断って出前取ろうかなァ」
 何を言っても僕には贅沢な悩みにしか聞こえない。以前だったらそんなヒラの幸せそうな話を妬む気持ちは起きなかったが、今の僕には遠い幸せに見え、苦々しく思った。
 ……そういえば、花井さんの作る料理は絶品だったしバランスも良かった。運動会などの日は、父に代わってお弁当を作って朝から来てくれたものだ。さすがに、僕より2つ年下だという息子の運動会とかぶった日には来てくれなかったが、それを詫びる申し訳なさそうな目を今でも忘れられない。
 そうだ。こうして考えてみると、僕の理想の女性は花井さんに近いのかもしれない。ポジティブで、家庭的で、痩せすぎもせず太りすぎてもいない健康的な体つき。気取るところのない丸みを帯びた顔が笑うと、朗らかな気分にしてくれる。これも一種のマザーコンプレックスなのかもしれないと思って自嘲した。
 なんだか妙に花井さんに会いたい。
 大学を卒業してからは、お中元やお歳暮のお礼の電話を交わしたりするくらいだ。最後に会ったのは昨年の父の葬式だったが、変わり無さそうに……もちろん父の死を悼む表情はしていたけれど、『坊ちゃん、気丈にね』と逆に僕を気遣ってくれた。
 そうだ。食事にでも誘ってみようか。明日にも容疑者として逮捕されてしまうかもしれない身だ。花井さんに会って、話がしたい。花井さんと話せば、もう少し前向きにものを考えられるようになるかもしれない。

 一通りのデスクワークを終え、帰宅の準備を終えると、僕はいてもたってもいられずに署の廊下で花井さん宅に電話をかけることにした。
 廊下の長椅子に腰掛け、呼び出し音の鳴る携帯を耳に当てていると、何人かの同僚が帰宅の挨拶を向けてきたので軽く手で返答した。

『はい、花井です』

 電話口に出たのは、若そうな男の声だった。おそらく、花井さんの息子さんだろう。一度だけ花井さんを介して会ったことがあったが、あの大らかな花井さんの息子とは思えないほど神経質そうな顔つきで、僕に対しては不遜な態度だった。
 その時のことを思い出して若干嫌な気持ちになりながらも、花井さんの声を聞けばそんな気持ちも晴れるだろうと言葉を続けた。
「筧と申します。恵子さんはご在宅でしょうか? 以前、家政婦さんとして来て頂いてだいぶお世話になりました」
『……』
 相手の男は受話器越しに聞こえるような息を吐くと、少し間をおいて僕に告げた。


『母は半年前に亡くなりました』


「……え?」

 言葉を失った。
 僕が何も言えないでいると、男はぞんざいに電話を切ろうとする。
『そういうわけなので、それでは』
「ま、待ってください! 元気そうだったのに、一体どうして……!?」
『……癌ですよ。膵臓癌でした。わかったときにはもう手遅れでした。
 ですから、もう我が家に電話をされても困ります。では』
 男は次は有無を言わせず電話を切った。ツー、ツー、という話中音だけが鳴り響く中、僕はあまりの衝撃に電話を切ることが出来なかった。

 花井さんが、半年も前に亡くなっていた?
 父の葬式では元気そうだったのに?

 ……いや、本当に元気だったのだろうか。落ち着いた様子は葬式の雰囲気ゆえかと思っていたが、もしかしたらあの時も体調が悪かったのだろうか。少し痩せて顔に影が出来たとは思ったが、それは年齢を経ただけだと思っていた。僕は、喪主としての忙しさにかまけて、花井さんの変わった様子に気付けなかったのかもしれない。
 それでも、あれほどの生命力に満ち溢れていた人がこんなにも突然に亡くなるなんて信じられない。好きな俳優の出るイベントに行くのだ、今度出演している映画の試写会に行くのだ、など、彼女は60歳を過ぎた歳でありながらいつも未来のことを楽しそうに語っていた。その彼女の未来が、既に絶たれていただなんて。

 ああ、悔しい。

 悲しいよりも、悔しい。花井さんの変化に気付けなかった自分が、花井さんの死を看取ることが出来なかったことが、葬儀に全く呼ばれなかったことが、息子から冷たい態度を取られたことが、たまらなく悔しい。
 心の奥底にあった大きな支えが突然消滅して空洞になったまま、やり場の無い悲しみと怒りが包み込む。
 今の電話での態度で明確にわかったが、僕はおそらく花井さんの息子に嫌われていたのだろう。花井さんが僕の帰りを迎え、夕食の時間まで一緒にいてくれたということは、息子はそうでなかったということだ。花井さんはきっと母親のいない僕を不憫に思って、僕との時間を優先的に取っていてくれたに違いない。
 それに花井さんは何かにつけて『坊ちゃんは本当に何でも良く出来るいい子。うちの息子なんて』と、口にしていた。僕はいい気になってそれを聞いていたが、逆に息子の前で僕を引き合いに出して叱っていたのだとしたら、それは息子にとっては屈辱だったろう。母親を奪っていた僕を、彼が嫌っていたとしても全く不思議ではない。
 だが……それでも、葬儀には出席したかった。儀式という形だけでも、花井さんの死を受け入れたかった。僕を嫌うのは構わない。だが、この仕打ちはあまりにもつらい。つらすぎる……。
 僕は特定の宗教にのめり込んだことも無いし、オカルト的なこともあまり信じない方だから、死後の世界というものも信じていない。葬儀というのは送り出す側の人間が個人の死が安らかなものであってほしいという願いを、最後の愛情を、示すものだと思っている。つまり残された人間の為の儀式なのだと認識している。
 それを経ずに死の事実だけを知ってしまった僕は、花井さんに対する気持ちを、一体どこに示せばいいんだろうか。何も準備が出来ていない。墓の場所すらわからない。ただ空白が出来ただけで、埋める術を持たない。
 そうだ。死を看取るということは、その人のそれまでの人生を受け止めるということでもある。それ以上の愛情表現があるだろうか。愛する人の命が失われていくのを目にした瞬間、その命を惜しみ、それまでの思い出と共に自分の中の愛情は最高潮を迎えるのだ。
 僕は、花井さんをそうして送ってあげたかった。僕の感謝の気持ちを昇華したかったのだ。
 涙。
 長らく流すことの無かった涙が一筋だけ頬を伝っていた。それでも一筋が精一杯だった。 


 僕は力の入らない足で、夜の街をフラフラと歩いて帰路についた。なんだか酷く疲れた。体も、瞼も重い。今すぐに布団に入って、惰眠を貪りたかった。
 しかし、花井さんのことを考える僕の中に、ふと湧き出してきた思い出の光景があった。

 あの、子供の頃にひっくり返してしまったオタマジャクシ達の末路だ。

 容器の水は当然のごとく地面に吸収され、夏の熱い土の上に横たわったオタマジャクシ達は苦しそうにピクピクと体を動かした。そっと拾って再び水を張った容器の中に入れてやれば、命が助かるかもしれない。
 だが僕は、何もしなかった。容器をひっくり返してしまったことと、それによってオタマジャクシが苦しそうにしていることに泣きそうになりながらも、僕は決して手を出すことはしなかった。
 助かると思わなかったから手を出さなかったわけでも、直接触るのが嫌だったからでもない。

 可哀相なオタマジャクシ達。あんなに元気にエサを食んでいたのに。あんなに元気に泳いでいたのに。

 僕は、オタマジャクシ達の動きがだんだんと弱くなっていくのを見て、自分がいかにこれらの小さな命を愛していたかを自覚していったのだ。そして、その命が全て尽きた時の悲しみに……『酔った』。
 そう、酔っていた。干からびたオタマジャクシ達の墓を掘り、埋めていく過程で、僕は間違いなく快感を覚えていた。僕の中の愛情を昇華する行為が葬送だったのだ。
 サリちゃんの時を思い出す。サリちゃんを殺した時はただただ必死だった。しかし、その遺体を隠すことを画策した時はどうだったろう。あの汲み取り口に隠した時はどうだったろう。
 僕は、汲み取り口の中に、サリちゃんと共に、すぐそこで咲いていたスズランの花を入れた。僕にとっての小さな儀式だった。その時の、罪悪感と悲しみと、サリちゃんの人生の終わりを見届けたのだという高揚感が綯い交ぜとなった、あの感情。
 花井さんを葬送することなく失ってしまった今、僕の中に出来た空洞を埋めるのは、あの感情しかない。

 僕ははっきりと自覚してしまった。僕は、『そういう人間』なのだ。

 旨いものを食べることよりも、セックスすることよりも、眠ることよりも、喜びを感じられる行為がそこにあるのだと。表面では嫌だ嫌だと言いながら、死体を見る機会の多い警察官という仕事を続けてこられたのはこういうことだったのだ。
 あまりにも悲惨な様子に耐え切れず吐いたことも度々あった。僕は明らかにそれらを見て打ちのめされてきた。だが、その感情が繰り返されることを心の底では願っていたのだ。よく知らない人間の死であっても、その最期の姿を見るという残酷な刺激は甘美な誘惑であったのだ。あの強盗強姦致死事件の被害者の姿を度々思い出すのは、男の性欲を吐き出され破壊された彼女の惨たらしい様にそれまで見てきた中で最もやるせない感情と、愛おしい『生命』を感じたからだったのだ。

「……ったくよォ、マジでざけんなよってカンジだよ! きょーはもぉウチには帰んねえ! オメーんとこダメ?
 ……ダメか。んじゃー、カラオケでも行くかなァ? ネカフェはトシでアウトだし」

 僕の耳に飛び込んでくる、守也くんよりも舌ったらずで、軽薄な声。目をやると、ブリーチでバサバサになった長めの髪をかつての守也くんのようにワックスで散らし、耳にも、あまつさえ唇にも、多くのピアスを付けた少年がスマートフォンで会話をしていた。
 驚くのは、その年齢が守也くんよりも遥かに若そうなことだ。変声期のようなかすれた声と、幼さの抜けない丸顔から察するに、13歳前後といったところだろうか。サリちゃんよりも若干幼く見えるが、この時期は総じて女子の方が大人っぽくみえるものだし個人差もあるのでなんとも言えないが、とりあえずその幼さと摺れた格好が酷く不釣合いである。
 この幼さでこの風貌ということは、家庭環境も知れたものだろう。学校にきちんと通っているようにも見えない。家庭や学校よりも、雑踏の中に自分の居場所を求める子供達。



 胸がドクンと鳴った。


 夢中になれるものがそこにあった。


















『あらあら、坊ちゃん、何を泣いているの?
 あら、まあ、オタマジャクシが?
 ……まあ、こんなに立派なお墓を作ってあげたのね。
 じゃあ、お花も一緒にお供えしましょうか。
 こんな小さな命まで大事にする坊ちゃんは、大きくなったらきっと、幸せになりますよ』


















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