時間を飲むもの ※近遺研時代のお話です その夜は何故か寝付けなくて、何度も寝返りを打っていた……。 外も比較的静かで、枕元の4個の目覚まし時計の秒針がカチカチ言う音だけをずっと聞いてたんだ。 早く寝付きたかったから、とりあえず頭の中で稲の数を数え始めた。 そのまま30分くらいは過ごしたな。稲の数は912本まで数えた。 そこで、ふと気が付いたんだ……。秒針の音が止んでいることに。 俺は電池が切れたのかと思って起き上がって目覚まし時計の一つを手に取った。やっぱり秒針が止まっていた。だが、不思議なことに他の3つも同様に秒針が止まっていたんだ。 同時に電池が切れるはずがない。俺は、何かが起きているんじゃないかという予感がして、ベッドから起き上がった。 とりあえずテレビでも付けてみようかと思ったら、付かないんだ。部屋の電気も同じだった。 停電かとも思ったが、窓から見える外の明かりは付いたままだった。だが、信号機の色は、赤からずっと変わらないように思えた。 それを確認する為に、俺はベランダに出てみた。窓はスムーズに開いた。 そこで、びっくりするような光景を見たんだ。 外の道路上の車は、全て止まっていた。それどころか、歩道を歩いている中年男性も、右足を前に出す歩く姿勢の途中で固まっていたんだ。 さながら、時が止まった世界だ。動的な姿勢をしているのに、動を感じない……。ベクシンスキーの絵みたいな静寂と退廃を感じる空間だった。 どうしてこんなことになっているんだ……? 混乱する俺の目に、唯一動くものが映った。 アパートの前の道路の向こうから、腰をかがめた丸い背中の人物がこちらの方へ向かって歩いてきていた。一歩一歩の歩幅が狭いので、ゆっくり、ゆっくりとだが、確実に俺のアパートへ近づいてくる。 ぞっとするものを感じた俺は、部屋の中に戻ろうと思った。 しかしちょうどその時、街灯の明かりの下に入ったその人物の格好が見て取れた。 顔は覆っているフードのようなもので見えなかったが、全身が赤黒い汚れで汚れていた。そしてその手には、街灯の光を受けて光る……草刈り鎌があった。 思わず驚きの声を挙げてしまった俺に気付いたその人物は、俺の方に顔を向けた。 「■△×○▽■◎!!」 そいつは俺に何かを言った。 何を言ったかはわからない。顔も見たはずだったが、今は覚えていない。 気が付いたら朝だったんだ。目覚まし時計は全部いつも通りに動いていた……。 「そりゃあ、夢だよ! 夢!」 赤い顔のノブユキがネズの肩をバンバンと叩く。ネズは黙々とビールを飲んでいた。 ネズの話の要点をまとめると、寝ようと思ったら時間が止まった世界になって、その中で唯一動ける不気味な何者かと目が合った、というような話になるが、確かにノブユキの言う通り夢としか思えない。大真面目で話すから、ノブユキのように笑い飛ばすことに一瞬躊躇ったけど。 大助は手元のビールを開け、ネズに手渡しながら言った。 「珍しくネズが長々としゃべるからどんな話かと思いきや、夢の話か。まあ、実際自分がそんな夢みたらおっかねえかもしれないけどさ」 「……夢じゃない」 ネズはいつものように落ち着いて否定したが、そんなはずがない。 「時間が止まるわけないじゃないか。AVじゃあるまいし」 僕がついそう言うと、キリコと小松の2人が冷たい目線を僕にくれた。 「信繁……なんでそこで一番にAVが出てくるの?」 「あ、いや、わかりやすいかと思って」 キリコに問い詰められてついそんな言い訳をしてしまった。何がわかりやすいのかさっぱりだ。ああ、女子2人の目が痛い……。 「そうだよな! ネズ、なんでそこで女の子のところに行かなかったんだよ! もったいねーな」 お調子者のノブユキは更にその話を広げようとしてくる。 「……。……そんなこと全然思いつかなかった……」 ネズは大助から渡されたビールを一気に煽った。目がトロンとして半開きになっている。 「根津くんはそんなもの観ないもんね! やっぱりイケメンは違うよねー」 小松が言うと、ノブユキはむっとした顔で反論した。 「それは違うぞ。どんなイケメンだろうがAVを観ない男はいない! ネズは信繁が大好きだからちょっと変わってるだけだ!」 僕はブッとビールを噴き出した。 「何でそこで僕が出てくるんだよ!」 あああああああビールの炭酸が鼻に逆流ううぅぅぅぅぅうう!! 痛い! 痛すぎる!! 僕は悶絶しながら咳込んだ。 「……」 おいっ……! ネズも顔を赤らめるなよアホがッ!! 「大丈夫か、信繁?」 大助だけが僕を気遣ってくれた。キリコも怪訝とした顔のまま僕とネズを交互に見ているだけだ。 僕らは、近遺研のメンバーで群馬県の廃ホテルを見に行った後、部長のネズの部屋で撮ってきた写真を見比べながら飲み明かしていた。ノブユキが居酒屋に行く金が無いとぼやいたからである。 ちなみに今のメンバーは同い年のこの6人だけである。ちょっと前までマサユキという奴がいたが、無理矢理シフトを入れられるブラックバイトに引っかかりこちらの活動には出られなくなったので、代わりに双子の弟のこのお調子者のノブユキが来るようになった。大助だけは一浪なので一学年下になるが、今年僕らが卒業してしまったら存続の危機だ。まあ新入生を入れられず解散になってもそれはそれで……というマッタリした雰囲気ではあるのだが、先輩達に申し訳ないような気がしないでもない。 ようやくビール逆流の苦しみから解放されてきたのでちらっと時計を見た。10時を回っている。明日は月曜日だしそろそろ解散した方がいいかもしれない。 「んじゃ、俺達はそろそろ帰るわ」 と、思っていた矢先にノブユキが立ち上がった。それに合わせるように自然と小松も立ち上がる。なんだかんだ言ってこいつらはデキているのである。非常に腹立たしいのである。帰るとか言いつつ解散した後は2人でどっかにバックレる気マンマンである。 「じゃあ、俺も帰るわ。俺ん家の近くはバス無くなるの早いし」 大助も立ち上がった。 「信繁とキリコはどうする?」 さて、僕も帰った方がいいだろう。と、思ったのだが……。 「わたしはもう少し飲んでくね。ネズ、いいでしょ?」 「……ああ」 キリコが意外に粘るので、このまま帰ってはいけないような気がした。僕が帰ったらネズとキリコが2人きりである。いけない。それはいけないであろう。ネズはもてるが女の子に関しては朴念仁である。それでも酔った2人に間違いが起きないとは言いきれない。 「じ、じゃあ僕ももう少し残るよ!」 近遺研からこれ以上リア充を出すまいと、僕も粘ることにした。そう発言してから、もしかして既にキリコとネズがデキていたとしたら僕は完全なるオジャマ虫だったのでは……?と不安になったが、キリコが嬉しそうに笑顔を返してきたので少し安心した。 ノブユキと小松、大助の3人がいなくなると、ネズの部屋は急に広くなったように感じられた。 「……ねえ、そういえばこの前、新宿で満月さんにバッタリ会ったの」 満月さんを知るのが僕らだけだからか、キリコは3人になった途端にそう言い出した。 「へえ、満月さんってこっちに住んでる人だったんだ」 「あ、そこまでは聞いてなかったけど……。ほら、あの格好でしょ? お巡りさんに囲まれて困ってたみたいなの。だからわたし、この人は怪しい人ではないですって言ってあげたの」 「ああ、あの格好じゃなあ……」 納得と言えば納得なのだが。キリコは話を続けた。 「その後、お巡りさんがとりあえず身分証明書を見せてくれって満月さんに言ったのね。で、満月さんが……わたしはよく見えなかったんだけど、免許証か何かを見せたの。 そしたらね、急にお巡りさん達が顔色変えて、『お役目、ご苦労様です!』って敬礼して去っていったの! わたしビックリしちゃって。満月さんに、『お仕事、何をされているんですか?』って聞いたら、『公務員……みたいなものですよ、フフ』って笑って人ごみの中に入ってっちゃったんだよね……。本当にあの人って謎が多いね……」 「なんだよそれ……。満月さんってお巡りさんがビビるような立場の人なのかよ……」 「……。……ペケ蔵さんにその身分証を見せたら、満月さんの正体がわかるのかな……」 そんな風に楽しく白寿島に行った時のメンバーの話をしていたら、あっという間に30分が過ぎていた。 「キリコ、そろそろもう帰った方がいいんじゃないか?」 女の子だし、あまり遅く帰すわけにはいかないだろう。もちろん出来るだけ送って行ってあげるつもりではいるが。 僕がそう言うと、キリコはちょっと首を傾げたのちにネズに向かって言った。 「ねえ、ネズ。明日1限からなんだけど、泊まっていっちゃダメ? ネズの家からの方が近いし」 「え!?」 キリコの大胆発言に僕は驚いて声を出してしまった。当のネズは酔って真っ赤な顔をしたまま表情を変えなかった。 「……いいぞ」 良くないだろ! 「いやいやいや、それはちょっと……まずいだろ! ワンルームに男女2人きりで夜を過ごすというのはその、インドにおけるカーマ・スートラを教義とした……」 僕が慌ててよくわからないことを口走ると、キリコはにっこり微笑んだ。 「ネズと2人きりが駄目なら、信繁も泊まっていけばいいじゃない」 「……え?」 「……。……俺は一向に構わないぞ。狭い部屋だし客用の布団は一式しかないが、それでもいいなら」 な、なんだっとぅええええええ!? い、い、一式の布団でキリコと……!? そうだ、その方がいいな! キリコとネズの2人きりで間違いがあったら困るもんな! 下着の着替えなんてコンビニでも手に入るし、それでいいな! うん! 「じゃ、じゃあ、僕も泊まっていくよ!」 僕は固くこぶしを握り締めて答えた。 ……。 ……。 ……何故、僕はキリコと一式の布団で一緒に寝るのだと思ってしまったのか。 客用の布団は当然のごとくキリコが一人で使い、僕はネズと、ネズのベッドで男同士共寝することになった。 ま、まあ、それが当たり前ですよね……。ははははは……(乾いた笑い)。 「おやすみー」 部屋の電気が消され、キリコは僕らに背を向けて布団の中にもぐりこんだ。ちなみにキリコはメイクを落として初めてすっぴんを見せてくれたが、ちょっと眉毛が乱れただけで充分に可愛かった。大事な情報をゲット出来たし、これはこれでよしとするか……。 「おやすみ……」 シングルベッドに男2人。ああ、なんて狭苦しく暑苦しいんだ……。今更だけど、毛布だけ借りて床で眠ればよかったんじゃないか? ネズは僕に背を向けて寝そべったが、筋張ったうなじが間近で見えてちょっとドキドキす……るわけないだろうがっ!! 僕もネズを避けるように背を向けて寝た。それでもうっかりするとケツとケツが触れてしまいそうでヒヤヒヤする。 ああ……ぬくい……ネズのぬくもりが……。 ……ってか布団の中の湿度高ぇ……。 一日動き回って疲れたのでさっさと寝てしまいたいのだが、先に眠りについたらしいネズがモソモソ動く度に僕は居心地の悪さを感じた。 今からでもベッドから降りて床で寝ようか……。 そう思った時に、パシャッというシャッター音に気付いた。なんとキリコが携帯を僕らの方へ向けて写真を撮っていた! 「な、なにしてるんだよキリコ!」 「あっ……面白い光景だから友達に見せようかと思って……」 酔っ払ってるキリコは時々悪ふざけが過ぎる。 「やめろよ! それ絶対腐ってる友達だろ!! 拡散されてネタにされるからやめろ!!」 僕はベッドから起き上がってキリコから携帯を奪って画像を消去しようとした。生徒会長とのホモ疑惑をかけられた中学時代の苦い思い出を繰り返してはならない! 「やだぁっ……冗談だって! ……あっ」 キリコから携帯を奪おうと思った行動は、そのまま彼女を布団の上に押し付けるような体勢となった。 酔ったキリコ、酔った僕。 キリコの長い髪が布団に広がる。キリコは驚いた表情のまま僕を見つめ返した。 「……」 「……」 僕が唾を飲み込む音が、妙に大きく聞こえた。文字通り目と鼻の先に、キリコの顔がある。体の中でムクムクと何かが盛り上がっていくような感覚。 いいのだろうか? 僕はそこから先に踏み出していいのだろうか? 「……きっ…キリコ!」 「……ねえ、静か過ぎない?」 「……へ?」 キリコが不意にそんなことを言い出した。そんなことどうでもいいじゃねーか早く続きを……と思ったが、確かに妙に静か過ぎるような気がした。外から車の音が全く聞こえなくなっている。それに、カチカチやたらうるさかったネズの枕元の4つの目覚まし時計から秒針の音がしない。 先ほどのネズの話を思い出した。僕はネズの方を振り返ったが、ネズは僕らがこれほどバタバタ音を立てていたのに熟睡したままだった。 部屋の電気を付けて、時計が動いているのか確認しよう。しかしスイッチを入れてみたが、何度切り替えても全く点灯しない。 「さっきのネズの話……」 キリコが不安そうに言った。 「まさかぁ。たまたまだよ。外に変な人でもいるっていうの?」 僕はキリコの不安を拭ってあげる為にベランダに出てみた。 「……!?」 目の前に広がる光景がにわかに信じられなかった。 アパート前の歩道を歩いていたらしき男性と、その傍の犬の足が上がったまま静止している。車も同様だ。しばらく見ていても信号は変わる気配もない。 ネズの語った光景、そのままだった。全てが止まった世界。耳の痛くなるような静寂。 ……そういえば。 ネズは、その中で唯一動く者があったと……。 僕は、まるで絵画か写真のように動かないフレームの中で、小さな影がのそっと動いたのを見た。 曲がったような腰。ヨタヨタと歩く細い2本の足。フードのようなものを目深にかぶっているようで顔は見えない。服はあちこちが黒っぽく汚れていた。いや、黒ではない。赤黒く、血の乾いたような色だ。 手には何か白っぽいものを持っている。さっきネズは何を持っていると言っていたか……! 「jkhのす;ssdlm!」 突然影の人物は、金切り声で叫んだ。 僕は恐ろしくなって急いで部屋の中に戻ってベランダの戸を閉めた。 「ど、どうしたの信繁……!?」 「ネズの言った通りだ……。みんな止まってる……。 なのに、一人だけ、動いてる奴がいる……! 鎌を持った、小さい奴が……!!」 「え……!?」 キリコは信じられないと言った顔で口を覆った。 「ネズ! 起きろ! ネズ!」 僕は眠ったままだったネズを揺り起こした。何度か揺するうちにネズはうなり声をあげながら目を覚ました。 「……。……なんだ?」 「お前が言ってたみたいに、時間が止まってるんだ! でもって、よくわかんない気持ち悪い奴がこっちに向かって歩いてきてて……!」 ダンッ! ダンダンッ! 突如鳴り響いた扉を叩く音に、僕ら3人は凍りついた。 ダンダンダン! 動けないまま何もしないでいると、竦む僕らをかばうように、起き上がったネズが前に出た。 「あ、開けるのか……?」 僕が言うと、ネズは小さく首を振った。 「この世界で動けるのがあいつだけ……。だとしたら、これもきっとあいつだ……。あの鎌と返り血を見たか……? ……絶対に開けちゃいけない。今のうちに、外に逃げよう……!」 「でも、ここは2階だろ!? 飛び降りれない高さじゃないかもしれないけど、キリコだっているし……」 「……ベランダに避難はしごがある。それを使おう」 何度も扉がダンダンと叩かれる音が響く中、僕ら3人はベランダに出た。とはいえ避難はしごなど使ったこともない。躊躇していると、ネズが手早く蓋のようなものを開け、スイッチを入れてはしごを下ろした。 「キリコ、先に行けよ」 僕がキリコを促すと、キリコは戸惑いながら頷いてはしごを降りていった。スチールのような素材で出来ているとはいえ、吊るされただけで下が固定されていないはしごを降りるのは怖いらしく、あまり運動神経の良くなさそうなキリコは恐る恐るゆっくりとしか降りられなかった。 ダンッダンッダンッダンッ! 扉が壊れそうな音だった。焦燥感に襲われながらも、キリコが1階に降りきるのを見届ける。 「信繁、次はお前が行け」 「いや、でも……」 「俺はお前達の靴を取ってくるから、先に……」 「靴って……玄関だろ!? ドア開けられて襲われたらどうするんだよ!」 「……ちょっと取ってくるだけだから。靴も無しに走って逃げるのは大変だろう? ……早く!」 僕はここでこれ以上モタモタしていても仕方ないので、ネズに心を残したままはしごを降りることにした。足場の細いはしごは僕の体重でゆらゆらと揺れて安定しなかったが、半ばまで降りてくるとそのまま飛び降りてキリコの傍に寄った。 「ネズは?」 「靴を取ってきてくれるらしい。とりあえず少し離れていよう」 僕はキリコの手を取ってアパートの敷地内ギリギリまで離れることにした。とはいえ敷き詰められた駐車場の砂利の上を靴無しで歩くのは厳しいものがある。僕はベランダが見える位置まで行って、ネズが降りてくるのを期待した。あいつがやられるはずがないんだ……。 「信繁!」 僕の期待通りに、ネズは姿を見せてくれた。その時、 ドッガアァァァッ!! ドアが破られる音が鳴り響く。僕は全身の血の気が引くのを感じた。 「ネズッ! 早く!!」 僕はたまらずに叫んだ。ネズは僕達の姿を見つけると、そのまま空に…… ……え? 靴を三足抱えたまま、ベランダから空に舞い上がり……膝を柔らかく使って、手を地面に付くこともなく着地した。 「待たせたな……」 そして僕らのところへ駆け寄り、スニーカーを放って渡してくれた。 クッソ……かっこいい……! 前にほんの気まぐれで近遺研のメンツで3on3をやった時のことを思い出す。長身を生かし高校時代バスケ部だったというネズの華麗なダンクシュートを目の前で見て、何故自分はこのような体に生まれてこなかったのだと悲しく思いながらも見惚れたのだった。しかしその公園のコートは実はダンクシュート禁止だったらしく、後で管理者に怒られたというオチが付くのだが。 「何をボーっとしてるの信繁! 逃げましょ!」 キリコにどつかれて僕は慌てて受け取ったスニーカーを履いた。 「kんごあでょsmsかlkjf!!」 奇声に目をやると、ベランダに例の鎌を持った人物が現れていた! 「まずい! 行こう!」 すぐにスニーカーを履きたかったが、ハイカットのコンバースがそれをさせてくれなかった。ああ、よりによってなんて靴を履いてきてしまったんだ……。仕方なくハイカット部分を折り返して、ろくに紐も結ばずにつっかけた。 走る。走る。 止まった世界の中を、一体僕らはどこに逃げようというのか。逃げおおせたとしても、時間は再び動き出すのだろうか……。時間が動き出さなければ、僕らは一体どうなってしまうのか……。 息が苦しくなってくると、不意にそんなことが頭を過ぎってくる。そもそもどこまで走ればいいのかわからない。あの人物の足はそこまで速くないように見えたが……。 「一度、この陰に隠れようよ。走り続けたって限界がある」 僕は2人に、コンビニ脇の細い路地に入ることを提案した。ダンボールやら色んなものが置いてあったので隠れるのには適しているように思えた。 「……そうだな、そうしよう」 後ろを振り返り、あいつが見ていないことを確認すると、路地に入った。やや奥まで入ると、散らばっていたダンボールを積み重ねて姿が見えないようにバリケードを作った。 「はあ……はあ……なんなんだよあいつは……。一体どうなっちゃったんだよ……!?」 僕は思わず頭を掻き毟った。汗で服がまとわりついて不快だ。バリケード内に隠れてはいるが未だに追いかけられているという焦りは抜けない。 「一体何が起きてるの……? わたし達、これからどうすればいいの……?」 「……」 僕達が思い思いの言葉を口にする中、ネズは押し黙って何か考えごとをしていた。 「そうだネズ、お前はどうやってここから元の世界に戻ったんだっけ?」 「……どうやっても何も……。あいつに気付かれて、何か怒鳴られて……気がついたら朝だ」 「あー、夢かよマジで……。どうすりゃいいんだよ……」 「……」 何も解決策が浮かばない。あいつのあの血まみれの服装と鎌を見るに、あいつに捕まったらあの鎌でズタズタに引き裂かれて殺されてしまうんだろう。僕らのようにこの世界に迷い込んだ人間を片っ端から捕らえて……。 恐ろしい。考えただけで足が竦む。 「……。……あの声、どこかで……」 ネズがそう呟いた時だった。 「kskgんごdjfぢそkms!!」 「……!」 あの耳をつんざくような奇声が聞こえた。バリケードから覗くと、あいつが僕らのいる路地の入り口に立ってこっちを見ているではないか! 「うわああああ!」 僕は驚きのあまり、積んだバリケードにぶつかりながらも奥へと逃げようとした。 しかし、先ほどつっかけたままだったコンバースがもつれて、その場に派手にずっこけてしまった。僕は地面に手を付きながら、もう二度とハイカットのコンバースは買うまいと決意した。 「……信繁!」 先に逃げ始めていたネズがそんな僕を気遣って振り返る。 「ネズ……! 先に逃げろ!」 僕がそう言ったのに、ネズはキリコに隠れるように促してから、僕のところへと駆け寄ってきた。 ちくしょう……イイヤツめ……。だからむかつくほどのイケメンだけど憎めないんだよ……! ネズは僕の手を取って引き起こそうとしてくれた。その時、 「ksjfん;あいにdjjsj!!」 ガキイイイィィン! 「ぎゃあああああああっ!!」 目の前にあいつが投げてきた鎌が突き刺さって、僕は悲鳴をあげてしまった。まずい、腰が抜けた。ちびらなかっただけマシだが、本気で立てなくなった……! 振り返ると、あいつが曲がった腰でヨタヨタと僕の方へ近づいてくる。 「ね、ネズッ! 立てない! 助けてくれぇ……!!」 情けないが、僕はネズにそう懇願した。しかしネズは、真顔で硬直していた。 「何やってるんだよネズ! 早くしろよッ!」 人間、本当の命の危機に陥ると浅ましいものだ。それでもネズは僕を助け起こそうとはせず……僕の目の前の地面に刺さった鎌を抜き取って、その柄を見て声を震わせた。 「……。 ……この鎌の柄に刻まれた、『チヨ☆』の文字……。 ……まさか、ばっぱ!?」 「……は?」 「……へ?」 僕とキリコが冷めた声を出すと、ネズは自分からあの腰の曲がった人物に駆け寄って行った! 「ばっぱ!」 「ksjdl!!」 なんと、ネズとあいつはひしっと抱き合った。 い、一体何が……!? 何が起きてるのかさっぱりわからん……! 「kdjlkjkdlm、kdんksj、dびgんlsksjぁ?」 「ああ、オラだば元気だ。くたにおがったど(ああ、俺は元気だ。こんなに大きくなったんだよ)」 「kjgdljms? げkjmしmskjg?」 「なんもだ。ただの友達だ。今は大学でホウリヅやっでら(この子は彼女でも好きな子でもないよ。ただの友達だ。今は大学で法律を勉強してるんだ)」 「んgkdjsn、skjsb、klsんlvsj……」 「ばっぱもかわんねェな(ひいばあちゃんも昔のまんま変わらないなあ……)」 あいつは、フードを……あ、よく見たらフードじゃなくて頭からかぶった手ぬぐいだった。その手ぬぐいを取り去った。下には、日に焼けて色黒の柔和そうな老婆の顔があった。 ばっぱ……ってことは、まさか、ネズのおばあちゃん……!? でもなんでこんなに血まみれで、僕達を追いかけてきたりしたんだ……!? それに、ネズの言葉はまあ、なんとなくわかるけども……、おばあちゃんのしゃべっている方言は何なのかまるで聞き取れない。日本語の発音とは思えなかった。 「ネズ、どういうことなの? 説明して……」 ネズとおばあちゃんが話しているのをしばらく呆気に取られて見ていると、キリコが僕の傍に寄ってきてそう言った。 ネズは、そっと振り返って僕らにそのイケメンフェイスを見せると、わかりやすく標準語で語り始めた。(※ただし標準語で話すとものすごく遅いので簡潔にまとめてみた) このチヨばあちゃんは母方の曾祖母で、ネズが6歳の時に稲刈りの帰り道に交通事故で死亡している。 実はその時、稲刈りを手伝っていたネズと手を繋いで歩いていて、そのネズをかばうようにして軽トラに轢かれたらしい。 轢かれながらおばあちゃんは、子供の頃から美少年で利発だったネズの行く末を見られないことをかなり無念に思ったということだった。 大きくなったら長谷川一夫ばりの美男子になるに違いない。それを見られずに死んでいくのが口惜しい……。 あと、やっぱり遺影用に撮った写真でピースなんかするんじゃなかった……。 その時、おばあちゃんの意識の中に常日頃から熱心に拝んでいた阿弥陀如来が現れて、おばあちゃんの意識を『時間の切れ間』に飛ばしてくれたということだった。 この『時間の切れ間』は時間を輪切りにしてったもので、阿弥陀如来はおばあちゃんに、その切れ間の中で動き回ったり、切れ間から切れ間に飛んだり、自由にしていられる能力を与えてくれたようだ(そんなバカな)。なんでも阿弥陀如来は時間の制約を受けない仏様らしい。 遺影の写真は阿弥陀如来でもどうにもならなかったようだが、かくして、ネズの行く末を見たいというおばあちゃんの願いは聞き届けられた。その能力を手に入れたおばあちゃんは、ネズの成長を時間の切れ間切れ間で見守ったり、いじくり回したりしたらしい(やめろよ)。 ところが、どういうわけか最近ネズがその切れ間に飛び込んでくるようになった。それがあの夢(?)の正体だったようだ。もしかしたら4つも目覚まし時計があることによってそれぞれの秒針の微妙なズレを感じてネズの周りの空間が不安定になり、切れ間に落ちるようになってしまったのかもしれないということだった(だったら時計屋はどうなるんだよ)。 そんなわけで、再び切れ間に落ちてきたネズや僕らを、元の時間の流れに戻してやろうと現れたのだということだった。 「jhgdshk、kさklkjn、dlsjkぃjみ、kdkjlskjh」 「……最近はAV業界の奴等がわざとこの切れ間に入り込んできて撮影しようとするからいちいち送り返してやるのが面倒くさい、と言ってる」 「あれ、やらせじゃねえのかよっ!」 僕は鋭くツッコミを……。ツッコミを……入れるのも、もう疲れた……。 どうやら、服が血まみれだったのはチヨおばあちゃん自身が車に轢かれた時の血だったらしい。なんて人騒がせな。ドアをぶち壊してきたりするからすげー怖かったんだぞ! ドアをぶち壊……あれ? おばあちゃん……?? 「おばあちゃん、初めまして。才原霧子です。根津くんとは大学で仲良くさせてもらってます」 キリコが挨拶したが、チヨおばあちゃんはツーンと顔を背けた。そして僕を見て……何故か目をキラキラさせて手を握ってきた。が、ガサガサした手だ……。 「……信繁、気に入られたみたいだ……」 嬉しくねえええええええええ!! 「あ、ど、どうも……のぶしげです……」 僕は作り笑いで挨拶した。チヨおばあちゃんは頬を紅潮させて僕の頭をなでなでしてきた。はうぅ……あたまはよわいんだよぉ……。 僕のおばあちゃんとは似ても似つかないタイプだけれど、なんとなく安心してしまう。きっと小さかった頃のネズはこのおばあちゃんが大好きだったんだろう。そのおばあちゃんが目の前で自分をかばって轢かれたわけだから、ネズはきっと心の底にそのトラウマを抱えて生きてきたに違いない。こんなシチュエーションではあるが、おばあちゃんを見るネズの表情は心底嬉しそうだった。 「jhskl、kjhlsl、jhfbsdjんhslkhfs」 しかしふと、おばあちゃんは急に真面目な顔つきになり、ネズに何かを言った。 「……何て?」 キリコが聞くと、ネズはシリアスな顔になっていくつかおばあちゃんとやりとりをし、僕らに向き直った。 「……この時間の切れ間と切れ間の間で『揺らぎ』が起きているらしい。だから色んな人達が簡単に迷い込んでくるようになったんだと言ってる。 時間の流れっていうのは光の速さに付随してくものだが、その光をも……空間をも歪めるような恐ろしく重い質量の存在を時々感じるそうだ……」 「え? どういうこと?」 「……」 ネズはじっと押し黙って空を見上げた。街の明かりに照らされて星の一つも見えないような、灰色の空を。 「……とにかく、ばっぱが阿弥陀如来の力を借りて俺達を元の時間の流れに戻してくれるそうだ。ばっぱの言うことに従ってくれ」 ネズの指示に従って、僕らはおばあちゃんの前に集まった。 「jhbぁshltmk、kしんls、mkdhslんs」 「……。……よし、そうしたら信繁、背を向けて鼻の穴に二本の指を突っ込み上半身だけこちらを向けて『げっちゅー』と言うんだ」 「……」 僕はジト目でネズを見た。 「……何をしてるんだ信繁。早くやれ。これは戻るのに必要な儀式だそうだ。かの親鸞聖人もそうやって如来とコンタクトを取ったらしいぞ」 「ぜったい嘘だろッ!!」 僕はそう訴えたが、おばあちゃんはにやにやと笑いながら僕を見ているし、ネズは至極真面目な顔だった。キリコは肩を震わせて笑いを堪えている。 くっ、くそババアめ……僕がやらなきゃいつまでも帰してくれないんだろうな……!! 僕は屈辱に顔を歪ませておばあちゃんを睨みつけながら、ゆっくりと後ろを向いた。怒りで震える指を鼻の穴に突っ込み、そのまま体を捻って振り返る。 ああ、なんでこんな役回りなんだ! 「……げ、げっちゅー☆!!」 その瞬間、僕らはまばゆい光に包まれた。 な、なんか魔法使ったみたいで案外カッコイイ……!? 僕らはどこが上とも下ともとれぬ、重力の制約を受けない空間に投げ出された。 (元気でな……。おめ達の時間は、オラが守る……) こ、こいつ、直接脳に……!? 光に包まれていく中で、チヨおばあちゃんが最後に僕らに見せてくれた優しい笑顔が、僕の脳裏に焼きついた。 気が付くと、ネズの部屋で朝を迎えていた。 窓の外からは行き交う車の音や生活音が飛び込んでくる。なんの変哲も無い朝だった。音が聞こえてくるということがこれほどまでに安心感を与えてくれるのか、と、天井を見上げたまま思った。 あれは夢だったのだろうか? ……いや、違う。僕は自分が靴を履いていたことで夢ではなかったのだと確信した。そしてそのまま、横で眠っていたネズやキリコに声を掛けて起こした。 キリコは頭が痛そうに起き上がり、ネズは起きてもしばらくずっと正面を見据えて動かなかった。きっと僕と同じで、あれが夢だったのかそうでなかったのか自問自答しているのだろう。 「……あんな体験、信じられないけど、現実なんだな」 僕の言葉で、2人も確信したようだった。 「……。……そうだな」 「やっぱり夢じゃなかったんだ。無事に戻って来られてよかったね。一時はどうなることかと思ったけど」 キリコは安堵の笑みを浮かべた。本当にそうだ。おばあちゃんが化け物などではなくて本当に良かった。あんな世界に生き続けるのもごめんだし。 そう考えながらふと、死んだ後とはいえあの世界にずっと居続けるチヨおばあちゃんの孤独を考えた。自分以外が全て止まっている世界。一時的に止められるだけならともかく、永遠にそれであるのはやはり寂しいのではないだろうか。 ……いや、あのおばあちゃんならこれまでも楽しくやれていただろうし、これからもきっと楽しくやれるのだろう。そこへたまにネズが訪ねて行ってあげられるのならば、もっと喜んでくれるはずだ。 「でも、ネズはこれから先でも行こうと思ったらいつでも行けるんじゃないかな。時間の揺らぎってやつは、まだ続いていくわけだろ? 目覚まし4つ全部かけて寝てればいいわけだし、たまにおばあちゃんに会いにいくのも楽しそうだよね?」 AV業者もそうやって何度も来ていたらしいしな。 僕がそう言うと、ネズは目を細め、意味ありげな表情で笑った。 「……時間の揺らぎ……か。 ……。……何度も、行くことになるかもしれない。一人で戦うなんて無茶過ぎるからな……」 「え……? 戦う……?」 ネズは、窓ごしに空を見上げた。まただ。一体空に何があるというのか。おばあちゃんとネズの会話のほとんどがよくわからなかったから、ネズが何を考えて空を見ているのかさっぱりわからない。 「……。……こうして普通の時間の流れに戻ってくると、日常がどれだけ大事かよくわかるな……」 「どういうことだよ? ま、まさか、自由に行き来できるようになるからって、あの空間を悪用したりしないよな? 時間を止めて僕を好き勝手にいじったりしないでくれよ?」 僕はふざけてそう言ったが、ネズは微笑みを返してくれただけでそれ以上は何も言わなかった。 PR
ミドルノート 後編 ◆ バス車内に貼られた広告に映る深緑の山並みを見て、何故だか懐かしい気持ちに捕らわれる。 昔から山は好きだった。山へ足を運ぶとどんなに陰鬱な気持ちでも晴れたし、街育ちであるのに山村の廃墟には不思議と懐かしさを覚え、好んで写真を撮った。 懐かしさ。そう、懐かしさだ。 稀に、江戸時代のような古びた様式の建物に囲まれた石畳を走り回る夢を見る。夢の中で自分は小さな女の子になっていて、姉に手を引かれながら嬉しそうにしているのだ。そんな僕らに、着物を着た女性が遠くから声をかけてくる。顔までははっきりとは思い出せない。その夢を見て目覚めると郷愁をそそられ、再びその夢のまどろみの中に落ちていきたい気持ちになったものだ。 建物や、女性が着物を着てる様子から、現代のものとは思えない光景だった。おそらく、大正か、昭和初期か……それくらいの時代が舞台の映画か何かを、きっと幼い頃に観たのだろう。そのイメージが鮮烈に脳に焼き付いて、自分のことであったかのように思い出されるに違いない。僕には幼少期の記憶がほとんどないから。浮かんでくるのは、殴られて痛いという記憶と、泣いている自分の姿だけだ。 ……そういえば、いつから僕は泣かなくなったんだろう。 今でもこんなに苦しくて、泣けるものなら、泣いてしまった方がスッキリしそうなものであるのに。 最寄の停留所に着くと、自宅マンションまでの帰路を急いだ。普段ならばすぐ傍のスーパーで食料を買い込んでいくのだが、それよりも家に守也くんがいるのかどうかが気がかりだった。 結局守也くんからメールの返信は来なかった。 それゆえ、僕は彼までも殺してしまったのかもしれないという不安に煽られて、帰宅出来るような時間になるまで気もそぞろでいた。助かったのは、ヒラが課長に僕の体調が悪いようだと口を利いてくれたことだ。それで早退させてくれるような生易しい職場じゃないが、僕が心ここにあらずといった状態であっても周りが配慮してくれた。 マンションに近づくにつれて、動悸が激しくなる。どうか、彼までも手にかけてしまったなんて悪夢が現実のものとなりませんように。 マンションの窓の明かりが無数に見える位置まで来て、僕は少しほっとした。僕の部屋の電気が点いていたからだ。もしかしたら、来ているのかもしれない。彼はきっと生きている。 いや、安心は出来ない。僕が単に電気を消し忘れて出てきたという可能性もある。僕は小走りでエレベーターに乗った。このエレベーターはこんなにも遅かっただろうかと、切り替わる階数表示を見ながら焦れる。 13階までたどり着くと、僕は廊下に誰もいないのをいいことに全速力で自分の部屋の前まで走った。 走りながら鞄から取り出した鍵でドアを開ける。 靴を脱ぎ捨ててリビングのドアを開けた時、そのソファで寝転ぶ守也くんの姿を見た。 「あ、オジャーシッテあーす」 全身で溜息を吐いた。 守也くんは僕のそんな様子を見て表情を焦りの色に変えた。 「な、なんすか!? 今日オレ来たらまずかったっすか!?」 僕は鞄を床に下ろし、ジャケットを脱ぎながら首を振った。 「いや、……そういうわけじゃないんだけど……」 ああ、生きている……生きている……。 自分が再び過ちを犯したわけではなかったことがわかり、肩の力が抜けた。冷や汗でべたついた体と倦怠感を払拭したくて、今すぐにシャワーでも浴びたい気分だった。 しかし、夜食の材料の買出しをしてこなかったので、食べるものが何も無い。 「……また、おごりを期待して来たのか?」 「あー……ハハッ、いいエフェクターを見つけたんっすよー。それに仕送りとバイト代つぎ込んじまって……。あ、そーそー、携帯も止められちゃったんでマコっさんに連絡できなかったんすよー」 「……なんだ、そういうことか……」 まったく情けない。そしていいようにたかられる僕も情けない。情けないが、今日はむしろ彼が生きていることに感謝して逆に奢ってやりたい気分だった。 とはいえ時間も遅いし、疲れきってレストランなどに行く気も起きなかった。 「もう今日はコンビニめしで勘弁してくれよ。……というか、エフェクターなんか買う前にちゃんと弾けるようになれよ……」 「うっす! オレ、形から整えないとやる気起きないタイプでー」 やれやれ。……まあ、不器用なようだが彼の左手の指のマメを見る限り練習はきちんとやっているのだろう。僕の部屋に来てもボイストレーニングの為に筋トレを欠かさない姿勢にも好感が持てる。普段の生活はだらしがないが、好きなことになら本気になって努力出来るタイプなのだろう。 ……ああ、そんなことで甘くなっていいように利用されてしまうんだな、僕は。 容疑者の言葉を簡単に信用してしまったり、同情してしまったり、何度失敗して上司に怒られてきたかわからない。もっと威圧的に話さなければ馬鹿にされてしまうぞとも言われたが、この歳までに形成されてしまった性質はなかなか変えようがない。 2人で近くのコンビニに向かい弁当の買い物を済ませると、マンションへ戻る道すがら、肉まんを手にした守也くんが怪訝とした顔でいた。 「マコっさん……」 深刻そうな顔で守也くんが呟く。 「こっちのコンビニってもしかして、肉まんに酢醤油付けてくれないんすか?」 「は? 酢醤油? ……そんなの無いよ。何か付いてくるなんて聞いたことないけど」 「オレんちの方だと肉まんに酢醤油とかカラシが付いてくるのは当たり前なんすけど……。こっちは違うんすね……。 なんかすげーカルチャーショックっすよ。酢醤油付けない肉まんなんてうまくないっすよマジで!」 なるほど、彼の地元の方ではそんな売り方をしているのか。こっちでは何も付いてこないのが当たり前だが、もしかしたら各地域によって色々と付いてくるものなのかもしれない。 「酢醤油くらいうちで用意出来るから、な?」 しかし、肉まんに酢醤油というのも聞くだけで美味しそうではある。守也くんに分けてくれと言うのも何なので、今度機会があったら試してみるか。今度、という自由な未来があとどれくらい残されているのかわからないが。 リビングに戻ると、テレビを付けて弁当をテーブルに広げた。さすがにチャンネル主導権は僕にあるので、すかさずニュースに切り替えた。フィッチ・レーティングスが日本の格付けを「安定的」から「ネガティブ」に変更した、など、震災等も関連した暗いニュースが続く。 ニュースを聞きながら、『廃村で遺体発見』や『女子中学生が行方不明』等のニュースが無いか、若干緊張する。緊張はするが、逃してはいけない情報だった。 「なんかアレっすね。この先日本どうなっちゃうんっすかね」 テレビを観つつ、カルビ丼を頬ばりながら守也くんが言った。 「そうだなあ……」 日本どころか、自分の明日すらわからない。このまま逃げおおせられるとは限らないし、僕自身が呵責の念に耐え切れるかどうかもわからない。 幕の内弁当の中の漬物をつまんでふと箸を止めた。 そういえば一人で漬物工場の廃墟に行ったことがあった。食材が放置されたまま腐乱し、とんでもない異臭を放っていて、とても長時間いられないような酷い有様だった。あの時は気絶してしまいそうなほどの刺激臭に我慢できなくて僕もすぐに立ち去ったのだった。 サリちゃんは便所の汲み取り口に押し込んだが、あの漬物工場の漬かったままの漬物の中に置いておくだけでも人の足を遠ざけることが出来たかもしれない。あんな臭いのする容器をわざわざ開けようとする者もおるまい。死臭をも紛らせてくれそうな悪臭だった。もし次があるのなら、あそこに……。 ……次? 次だなんて、何を馬鹿なことを。 次などない。あの一度だけで充分だ。サリちゃんの肉を貫く感触。体にかかる生暖かい血液。目を閉じれば今でも鮮烈に浮かんでくる。サリちゃんの目から光が消えた時の、あの、全身を貫くような……快感。 ……快感だ。 「マコっさん」 ハッとした。守也くんが僕の箸の先の漬物を見ている。 「コンビニ弁当あっためると漬物も熱くなんの、すげー嫌っすよねー」 「……そうかな? あんまり気にしたことなかったな……」 「いやー、やっぱ冷たく冷えた漬物をアツアツのご飯で食べるのが最高っすよ! 漬物付けるならマヨネーズの袋とかみてーに別にしといて、あっためる時は外すべきだと思うんすよね、オレは!」 「はは、変なところで渋いよな、守也くんは」 細身の割になかなか食べ物に対して執着心もこだわりも強い。しかしながら奢った方としては美味しそうに食べる様子を見せてくれるのは嬉しい限りだ。 そうだ。僕はこうやって力強く生命力に溢れた行動を見るのが好きなのだ。動物も植物も人間も、僕の身の回りで生きているのだと思う瞬間に喜びを感じる。愛しく、尊さを感じる。 父から暴力を受け続けていた日々、泣きながら庭の植物の成長を見て心を慰めていた。父に植物を愛する趣味は無かったので、きっと母が植えていったものだろう。それを花井さんが、枯れないように上手に手入れしてくれていた。きっとその頃からだ。僕がそういった周りの生き物に愛情を感じるようになったのは。 以前付き合っていた彼女は小食だった。彼女が物を残す様子を見る度に、僕は残念な気持ちになっていた。僕は彼女の体形に対してそのままで充分だと言っていたのに、彼女はいつも『もっと痩せたい』『こんな太い足じゃイヤ』と口にしていた。別れたのはそれが原因というわけでもないし、僕はどちらかと言うと振られた方だが、今思うとそうやって僕の前で自然体でいてくれないことに若干の悲しみを覚えていたのかもしれない。 しかし…… そうやって得られる喜びが、必ずしも『生きている状態』から得られるものではなかったとしたらどうだろう。 僕のこの感情は『生命活動そのもの』に対する憧憬ではなく、『生命』に対する憧憬であったら? 生命力を愛するがゆえに、生命が尽きる瞬間にもっともその生命の崇高さを感じて喜びを得られるのだとしたら? 僕は、サリちゃんを刺した時と、守也くんを殺す夢を見た時に体中を駆け巡った感情の正体を掴みかけているのかもしれない。 ◆ サリちゃんを殺してから、2週間が経った。 何の捜査の手も及んでいないが、もしかしたら一般家出人として扱われたのだろうか。それとも前々からプチ家出などを繰り返していたりして、親が今回もそれだと思って捜索願を出していないのだろうか。いや、特異家出人だとみなされて捜査が始まっていたとしても、未成年の場合は友人や先輩の家で見つかることが多いから、まだそれらを当たっている途中なのかもしれない。あれこれと不安は尽きない。 唇の端に出来た口角炎を気にしながら、僕は出前で取った海鮮丼を口にしていた。サリちゃんを殺した直後はあまり食が進まなかったが、最近は割と食べられるようになった。若干顔がやつれたとヒラに指摘されてからはなるべくチョコレートなどの甘いものも摂るようにしている。 「最近自分、肉が食えなくなってきたんですよね」 隣のデスクでヒラが愛妻弁当のミートボールを箸で挟みながら言った。 「まだそんな歳じゃないだろ」 僕も以前ほどは脂っこいものや肉類に執着が無くなり海産物が好きになってきたが、僕より若いヒラが言うと若干嫌味にも感じてしまう。 「うまい肉ならいいんですよ。でも冷凍食品の肉じゃ味気ないですよ。毎日だからなあ。 しかもカミさん、家で魚料理あんまりしてくれないんですよ。グリルを洗うのが嫌だとか、魚に包丁通すのが嫌だとか、手に生臭い臭いが付くとか」 「作ってもらえるだけでもカミさんに感謝しろよ。こっちからしたら手作りってだけで羨ましすぎるぞ」 「いや、結局自分のなんて子供の弁当のついでなんですよ! 最近はなんでも子供優先です! だからおかずもみんな子供向けで量も少ないし……。ミートボールですよ? 小学生じゃないんだから……。 自分も海鮮丼食べたいですよ。明日は弁当断って出前取ろうかなァ」 何を言っても僕には贅沢な悩みにしか聞こえない。以前だったらそんなヒラの幸せそうな話を妬む気持ちは起きなかったが、今の僕には遠い幸せに見え、苦々しく思った。 ……そういえば、花井さんの作る料理は絶品だったしバランスも良かった。運動会などの日は、父に代わってお弁当を作って朝から来てくれたものだ。さすがに、僕より2つ年下だという息子の運動会とかぶった日には来てくれなかったが、それを詫びる申し訳なさそうな目を今でも忘れられない。 そうだ。こうして考えてみると、僕の理想の女性は花井さんに近いのかもしれない。ポジティブで、家庭的で、痩せすぎもせず太りすぎてもいない健康的な体つき。気取るところのない丸みを帯びた顔が笑うと、朗らかな気分にしてくれる。これも一種のマザーコンプレックスなのかもしれないと思って自嘲した。 なんだか妙に花井さんに会いたい。 大学を卒業してからは、お中元やお歳暮のお礼の電話を交わしたりするくらいだ。最後に会ったのは昨年の父の葬式だったが、変わり無さそうに……もちろん父の死を悼む表情はしていたけれど、『坊ちゃん、気丈にね』と逆に僕を気遣ってくれた。 そうだ。食事にでも誘ってみようか。明日にも容疑者として逮捕されてしまうかもしれない身だ。花井さんに会って、話がしたい。花井さんと話せば、もう少し前向きにものを考えられるようになるかもしれない。 一通りのデスクワークを終え、帰宅の準備を終えると、僕はいてもたってもいられずに署の廊下で花井さん宅に電話をかけることにした。 廊下の長椅子に腰掛け、呼び出し音の鳴る携帯を耳に当てていると、何人かの同僚が帰宅の挨拶を向けてきたので軽く手で返答した。 『はい、花井です』 電話口に出たのは、若そうな男の声だった。おそらく、花井さんの息子さんだろう。一度だけ花井さんを介して会ったことがあったが、あの大らかな花井さんの息子とは思えないほど神経質そうな顔つきで、僕に対しては不遜な態度だった。 その時のことを思い出して若干嫌な気持ちになりながらも、花井さんの声を聞けばそんな気持ちも晴れるだろうと言葉を続けた。 「筧と申します。恵子さんはご在宅でしょうか? 以前、家政婦さんとして来て頂いてだいぶお世話になりました」 『……』 相手の男は受話器越しに聞こえるような息を吐くと、少し間をおいて僕に告げた。 『母は半年前に亡くなりました』 「……え?」 言葉を失った。 僕が何も言えないでいると、男はぞんざいに電話を切ろうとする。 『そういうわけなので、それでは』 「ま、待ってください! 元気そうだったのに、一体どうして……!?」 『……癌ですよ。膵臓癌でした。わかったときにはもう手遅れでした。 ですから、もう我が家に電話をされても困ります。では』 男は次は有無を言わせず電話を切った。ツー、ツー、という話中音だけが鳴り響く中、僕はあまりの衝撃に電話を切ることが出来なかった。 花井さんが、半年も前に亡くなっていた? 父の葬式では元気そうだったのに? ……いや、本当に元気だったのだろうか。落ち着いた様子は葬式の雰囲気ゆえかと思っていたが、もしかしたらあの時も体調が悪かったのだろうか。少し痩せて顔に影が出来たとは思ったが、それは年齢を経ただけだと思っていた。僕は、喪主としての忙しさにかまけて、花井さんの変わった様子に気付けなかったのかもしれない。 それでも、あれほどの生命力に満ち溢れていた人がこんなにも突然に亡くなるなんて信じられない。好きな俳優の出るイベントに行くのだ、今度出演している映画の試写会に行くのだ、など、彼女は60歳を過ぎた歳でありながらいつも未来のことを楽しそうに語っていた。その彼女の未来が、既に絶たれていただなんて。 ああ、悔しい。 悲しいよりも、悔しい。花井さんの変化に気付けなかった自分が、花井さんの死を看取ることが出来なかったことが、葬儀に全く呼ばれなかったことが、息子から冷たい態度を取られたことが、たまらなく悔しい。 心の奥底にあった大きな支えが突然消滅して空洞になったまま、やり場の無い悲しみと怒りが包み込む。 今の電話での態度で明確にわかったが、僕はおそらく花井さんの息子に嫌われていたのだろう。花井さんが僕の帰りを迎え、夕食の時間まで一緒にいてくれたということは、息子はそうでなかったということだ。花井さんはきっと母親のいない僕を不憫に思って、僕との時間を優先的に取っていてくれたに違いない。 それに花井さんは何かにつけて『坊ちゃんは本当に何でも良く出来るいい子。うちの息子なんて』と、口にしていた。僕はいい気になってそれを聞いていたが、逆に息子の前で僕を引き合いに出して叱っていたのだとしたら、それは息子にとっては屈辱だったろう。母親を奪っていた僕を、彼が嫌っていたとしても全く不思議ではない。 だが……それでも、葬儀には出席したかった。儀式という形だけでも、花井さんの死を受け入れたかった。僕を嫌うのは構わない。だが、この仕打ちはあまりにもつらい。つらすぎる……。 僕は特定の宗教にのめり込んだことも無いし、オカルト的なこともあまり信じない方だから、死後の世界というものも信じていない。葬儀というのは送り出す側の人間が個人の死が安らかなものであってほしいという願いを、最後の愛情を、示すものだと思っている。つまり残された人間の為の儀式なのだと認識している。 それを経ずに死の事実だけを知ってしまった僕は、花井さんに対する気持ちを、一体どこに示せばいいんだろうか。何も準備が出来ていない。墓の場所すらわからない。ただ空白が出来ただけで、埋める術を持たない。 そうだ。死を看取るということは、その人のそれまでの人生を受け止めるということでもある。それ以上の愛情表現があるだろうか。愛する人の命が失われていくのを目にした瞬間、その命を惜しみ、それまでの思い出と共に自分の中の愛情は最高潮を迎えるのだ。 僕は、花井さんをそうして送ってあげたかった。僕の感謝の気持ちを昇華したかったのだ。 涙。 長らく流すことの無かった涙が一筋だけ頬を伝っていた。それでも一筋が精一杯だった。 僕は力の入らない足で、夜の街をフラフラと歩いて帰路についた。なんだか酷く疲れた。体も、瞼も重い。今すぐに布団に入って、惰眠を貪りたかった。 しかし、花井さんのことを考える僕の中に、ふと湧き出してきた思い出の光景があった。 あの、子供の頃にひっくり返してしまったオタマジャクシ達の末路だ。 容器の水は当然のごとく地面に吸収され、夏の熱い土の上に横たわったオタマジャクシ達は苦しそうにピクピクと体を動かした。そっと拾って再び水を張った容器の中に入れてやれば、命が助かるかもしれない。 だが僕は、何もしなかった。容器をひっくり返してしまったことと、それによってオタマジャクシが苦しそうにしていることに泣きそうになりながらも、僕は決して手を出すことはしなかった。 助かると思わなかったから手を出さなかったわけでも、直接触るのが嫌だったからでもない。 可哀相なオタマジャクシ達。あんなに元気にエサを食んでいたのに。あんなに元気に泳いでいたのに。 僕は、オタマジャクシ達の動きがだんだんと弱くなっていくのを見て、自分がいかにこれらの小さな命を愛していたかを自覚していったのだ。そして、その命が全て尽きた時の悲しみに……『酔った』。 そう、酔っていた。干からびたオタマジャクシ達の墓を掘り、埋めていく過程で、僕は間違いなく快感を覚えていた。僕の中の愛情を昇華する行為が葬送だったのだ。 サリちゃんの時を思い出す。サリちゃんを殺した時はただただ必死だった。しかし、その遺体を隠すことを画策した時はどうだったろう。あの汲み取り口に隠した時はどうだったろう。 僕は、汲み取り口の中に、サリちゃんと共に、すぐそこで咲いていたスズランの花を入れた。僕にとっての小さな儀式だった。その時の、罪悪感と悲しみと、サリちゃんの人生の終わりを見届けたのだという高揚感が綯い交ぜとなった、あの感情。 花井さんを葬送することなく失ってしまった今、僕の中に出来た空洞を埋めるのは、あの感情しかない。 僕ははっきりと自覚してしまった。僕は、『そういう人間』なのだ。 旨いものを食べることよりも、セックスすることよりも、眠ることよりも、喜びを感じられる行為がそこにあるのだと。表面では嫌だ嫌だと言いながら、死体を見る機会の多い警察官という仕事を続けてこられたのはこういうことだったのだ。 あまりにも悲惨な様子に耐え切れず吐いたことも度々あった。僕は明らかにそれらを見て打ちのめされてきた。だが、その感情が繰り返されることを心の底では願っていたのだ。よく知らない人間の死であっても、その最期の姿を見るという残酷な刺激は甘美な誘惑であったのだ。あの強盗強姦致死事件の被害者の姿を度々思い出すのは、男の性欲を吐き出され破壊された彼女の惨たらしい様にそれまで見てきた中で最もやるせない感情と、愛おしい『生命』を感じたからだったのだ。 「……ったくよォ、マジでざけんなよってカンジだよ! きょーはもぉウチには帰んねえ! オメーんとこダメ? ……ダメか。んじゃー、カラオケでも行くかなァ? ネカフェはトシでアウトだし」 僕の耳に飛び込んでくる、守也くんよりも舌ったらずで、軽薄な声。目をやると、ブリーチでバサバサになった長めの髪をかつての守也くんのようにワックスで散らし、耳にも、あまつさえ唇にも、多くのピアスを付けた少年がスマートフォンで会話をしていた。 驚くのは、その年齢が守也くんよりも遥かに若そうなことだ。変声期のようなかすれた声と、幼さの抜けない丸顔から察するに、13歳前後といったところだろうか。サリちゃんよりも若干幼く見えるが、この時期は総じて女子の方が大人っぽくみえるものだし個人差もあるのでなんとも言えないが、とりあえずその幼さと摺れた格好が酷く不釣合いである。 この幼さでこの風貌ということは、家庭環境も知れたものだろう。学校にきちんと通っているようにも見えない。家庭や学校よりも、雑踏の中に自分の居場所を求める子供達。 胸がドクンと鳴った。 夢中になれるものがそこにあった。 『あらあら、坊ちゃん、何を泣いているの? あら、まあ、オタマジャクシが? ……まあ、こんなに立派なお墓を作ってあげたのね。 じゃあ、お花も一緒にお供えしましょうか。 こんな小さな命まで大事にする坊ちゃんは、大きくなったらきっと、幸せになりますよ』
ミドルノート 前編 ※異変怪道編のエピソードになりますのでクリアしていない方はご注意下さい。 近くの川で集めてきた10匹のオタマジャクシ。 イチゴが入っていた透明な容器に水を溜めて、縁側で飼っていた。 オタマジャクシは雑食なので、ご飯粒や鰹節、パンなど、与えれば何にでも群がってきた。体を震わせながらその小さな口でつつく様子がとても可愛らしく、ちょろっと生えてきた後ろ足を見て早くカエルにならないかとワクワクしたものだった。 しかし、ある日僕は、ちょっとした不注意でそのオタマジャクシを入れた容器を縁側から落としてひっくり返してしまった。 10匹のオタマジャクシは炎天に晒された地面の上に投げ出された。 ◆ 晩春の暖かな公園で遊ぶ子供達を横目で見ながら、そんな昔のことをふと思い出した。 昨夜午後7時50分頃、自転車で帰宅中の大学生一年生の少年の顔を、同じく自転車に乗った二人組の男がいきなり殴りつけ、「金を出せ」と脅す強盗致傷事件が発生した。 被害金額は財布に入っていた15000円。被害者は全治2週間の怪我を負った。 それに伴い、被害にあった現場付近で他に二人組に関する目撃証言が無いか、聞き込みをして回っていたところだった。 「まーたそんな目で見てる。筧さん、不審者に思われますよ」 相方の平康太、通称『ヒラ』に突っ込まれて、僕ははっとして姿勢を正した。 ヒラは強行犯係にはまだ配属になったばかりの26歳であるが、既に可愛い妻子持ちだ。 警察官は割と早いうちに結婚する奴が多い。さっさと独身寮から出ていけるというのもあるが、ハードワークゆえに心の支えが必要だと、周りがやたらと結婚を勧めてくるからだ。ただし家庭が二の次になってしまうことが多いので離婚率もそれなりに高いが。 独身の僕もずっと寮生活だったが、元々実家が通勤圏内にあったし、定年退職後、民間企業に勤め始めた父と今なら少しは落ち着いて話すことが出来るかもしれない、と、30になったのを機に実家暮らしを始めたのだった。 だが父も休日はパチンコに行ったり釣りに行ったりと、家にいることが少なかった。結局ろくに話もしないままパチンコ屋で倒れて帰らぬ人となった。僕は迷惑をかけたパチンコ屋とその時に救命活動を行ってくれた他の客に礼をし、最後まで父の尻拭いをせざるを得なかったのだ。 その後僕は、嫌な思い出だらけの実家を売り払い、近場にマンションを購入してそこに住むようになった。 最後まで分かり合えなかった。 ……いや、僕は分かり合いたいと思っていたのか? 父子家庭であったのに、お互いにどう接していいかわからないままだった。父はとっくの昔に僕を殴らなくなったが、皮肉なことにそうなることでかえって僕と父の接点は無くなっていった。 僕は父に強制されて小学生の頃から近くの警察署の少年柔剣道教室に通い、柔道と剣道を共に習ってきた。そこまで運動神経が良い方でもなかった僕にとっては両方をこなすのはつらかったし、始めのうちはこれも父からの暴力の延長のように感じていた。もちろん、途中でそれぞれの面白さや奥深さに惹かれるようになって、中学生になる頃には苦痛には思わなくなったが。 警察官でも柔道と剣道の両方をやっていた人間は多くはない。ただ、柔道のみをやってきた人間は危害を加えようとする相手と対峙した時にすぐに相手の懐に飛び込もうとする為、怪我をする確率が非常に高いのだ、と、以前当時の上司から聞いたことがあった。もちろん剣道をやっていたとしても丸腰ではどうにもならないが、間合いをしっかりと取ることが身に付いているので職務中に怪我を負う確率が圧倒的に柔道のみをやってきた人間よりも低くなるらしい。 僕はその話を聞いた時に、僕が両方やらされていたのはもしかしたら父が僕のことを思ってくれていたからではないか、と考えた。父自身は柔道しかやっていなかったからだ。しかし、その真偽を確認する時間は、最後まで訪れなかった。 幼少から大学を卒業するまでずっと家政婦として来てくれていた花井さんだけが、僕の仮初めの母であり心の寄りどころだった。 花井さんにも家庭があったから遅い時間になれば帰っていったが、それでも、学校から帰った僕を迎え入れてくれる人がいるだけでも、幼い僕は心の安定を手に入れることが出来た。 僕の本当の母親は、僕が幼い頃に姉を連れて出て行ってしまったまま行方知れずになったと父は言っていた。僕の中に母親の記憶はほとんど無い。父に殴られる僕を庇って、同じように父から殴られていたようなおぼろげな記憶があるが、それが本当の記憶なのか、母を求めた自分が作り出した記憶なのか定かではなかった。 一昨年、実家にその母が死亡したとの手紙が届いた。宛名は僕の名前だったが、差出人の住所も名前も無かったのは、父を敬遠するためか。僕の話を聞いていた母の周りにいた何者かが気を利かせて知らせてくれたのだろう。 長らく離れていて記憶もない母親だ。ショックは無かった。暴力を振るう父親の元に僕一人を置いて家を離れた母親の死に、僕はびっくりするほど冷静だった。母と一緒にいなくなったという姉の手がかりになるかもしれないと消印の先である山梨県の町を探ってはみたけれど、結局差出人はわからなかったし母達がそこにいたという話も得られなかった。 「不審者は無いだろ。不審者は!」 僕は明るく振る舞った。 「いやいや、こんな真昼間に町中をウロウロしてる男がそんなもの欲しそうな目でじーっと子供達を見てたら、自分なら職質しますね! 間違いなく!」 「ウロウロしてるのはお前も一緒だろ!」 ……そうだ。ヒラの目は間違っていない。 僕は先日、少女を殺した。 始めは殺意があったわけではなかった。偶発的な過失だった。 ……だがその後、包丁を繰り返し振り下ろした僕の中には明確な殺意が生まれていた。弁解のしようが無い。あの時に何故あんな感情を抱いてしまったのか、今ではわからない。殺人の動機の多くが突発的なもの……わかってはいたが、身をもって実感することになるとは思ってもみなかった。 彼女……サリちゃんの遺体は人目のつかない廃屋の汲み取り口の中に隠した。部屋に残った血痕も酸性洗剤で処理はしたが、結局のところ全ての痕跡を消すことは不可能に近いので部屋を調べられればわかってしまうだろう。捜索願が出されてから僕のところに捜査の手が届くまで、どれくらい時間が残されているのだろうか。 こんな風に、仕事の合間にヒラとふざけあうことも出来なくなる。家庭を持つことを望む前に、もはやそんなことも出来ない立場に追い込まれてしまった。 犯してしまった行為は、どう抗おうとも無かったことには出来ない。そもそもが無計画だった犯罪は穴だらけだ。普段からその穴をつついているのは僕らなのだ。 「まあ今回は、被害額も被害者のケガも大したことなかったようだし、良かったですよね。今日は早く家に帰れそうだ」 僕は再びはっとしてヒラに顎を向けた。こんな発言、警察官がしていいものではない。 「逮捕も出来てないんだからまだそんなこと言うなよ。連続犯になって、女の子とかが狙われたらシャレにならないぞ」 以前担当した強盗強姦致死事件の被害者の痣だらけの姿を思い出して、胃がきゅっと締め付けられた。あれは本当に胸糞の悪い事件だった。 だが今となっては、僕も似たようなものなのかもしれない。あの時の被害者よりもっと年若い少女を手にかけ、不浄な場所へと隠した僕と、あの時の犯人と、一体何が違うのだろうか。生前に性を弄ぶような行為をしなかった。違いはそれくらいしかない。行ったのは共に、死に至る暴力行為だ。 あの直後は妙に冷静になっていたけれど、日が経つごとに罪の重さの重圧と、サリちゃんに対する懺悔の気持ちが湧いてくる。 こうして平然を装ってはいるが……。 このところ、背後に何かの視線を感じることが多い。 誰かに見つめられているような気がする。 おそらく、世間に対する後ろめたさがそうさせているのだろう。 捜査の手が僕に及んでいないか、何者かに監視されていないか、気を張ってしまっているからそう感じるのだろう。 人を殺した後に平然としていられる人間の方が少数派だ。 僕は至って普通の人間だ。 だから、今の僕の精神が、平常とは違うというだけなのだ。 この気配は、僕の気のせいだ。 ◆ 『我々が動き廻っているのも、生存しているのも、常に同じ埒内にあるのであって、生きているからといってその為に新たな喜びが作り得られるわけのものではない。 渇望する憧れは、とても達せられないうちは、それが他の何物よりも優れたものでもあるかのように見えるにすぎない。 その渇望も、一旦達してしまえば、またその後から別なものを我々は渇望するようになる。』 ルクレティウスの言葉だっただろうか。 自分に無いものを求め続けていると、常に不満を抱えたまま同じ輪の中をグルグル回るだけだ。 多くを望まなければいいのだ。 目の前にある幸せ。充分だ、それで。 ……充分だった、はずだった。 玄関の扉を開ける。 自分の部屋の匂いを嗅ぐと気持ちが落ち着く。すぐにネクタイを緩めた。 横着して夏用のスーツをまだ出していなかったが、汗で張り付いたシャツを見るに、もう限界だろう。 明日こそは衣替えをしなくちゃな……。 歩き続けて底の浅くなった靴を雑に脱ぎ捨て、僕はギョッとした。 目に入る、小さな黒い靴。 ……ローファーだ。 中高生が履くようなシンプルなパテントローファー。 彼女の……。 「あ、おかぁりっスー」 「!!」 改めて玄関を俯瞰して眺めれば、そこにあるのは、シンプルな作りの黒のスリッポン。 僕のではないことに間違いは無いが、ローファーなどではない。僕の見間違いか。 そうだ、僕はサリちゃんに彼女の履いていたローファーを履かせて汲み取り口に押し込んだのだ。こんなところにあるはずが無い。ここまで臆病になっているとは、我ながら笑えてくる。 「馬鹿みたいだな……」 僕は安堵の息と共につい独り言を発してしまった。 「守也くん、いるのか?」 廊下の奥の部屋に声を掛けながら近づいていく。 ドアを開けた先には、リラックスした体勢でソファに寝転がりながらテレビの野球中継を見ている守也くんの姿があった。 「オジャーシッテあーす」 テレビは野球の試合を映している。馴染みのある青いユニフォームと、これまた有名な黒とオレンジのユニフォーム。 「……テレ玉観てるのか。相手は……巨人か。そういえば交流戦の時期だな」 テレ玉とは、テレビ埼玉のことである。しかし守也くんは別に西武ファンでも何でもないはずだ。 「いやー、観るもんねーんですもん。最近のテレビ似たようなのばっかでつまんねーし、どのチャンネル回しても同じ芸人しか出てこねーし、ニュースは辛気臭くてもっとつまんねーし!」 「ラジオでは広島戦もやってるんじゃないのか?」 そう思って、朝からポストに入ったままだった朝刊を抜いてきて眺める。 「……うわあ、文化放送もTBSもニッポン放送も、全部西武巨人戦か」 「偏り過ぎっすよー! いっこくらい広島戦やっててもいいのに!」 そうやって唇を尖らせる守也くんだが、そこまで熱烈な広島ファンというわけでもないらしい。 広島にいた頃は『広島ファンでなければ非国民』、というムードだったと言っていた。小学生の頃は野球をやっていたらしいので、周りに流されるままに広島を応援していたのだろう。 それでも彼は、おそらく今の2軍の選手名までは知るまい。本当はサッカーの方が好きなのはウイイレに付き合わされる頻度でよくわかっている。今だって、サッカー中継があればそちらを観ているに違いないのだ。 「夕飯はどうした?」 「食う金無いから来たんすよ」 「……まあ、そうだよな」 聞くまでもなかった。 彼はこうして有り金が尽きたり、節約したい時にこうやってちょくちょくタカリに来る。また、この最寄り駅で仲間と路上ライブをしているようで、終電が無くなる時間までやったらそのまま宿を借りに来たりもする。僕の不規則な生活で留守にしがちなこの部屋は、彼に体よく利用されていた。 もっとも、長い寮生活で自然と溜まっていった貯金や父の遺産もあって今は金にはそれほど困っていない。だから、たまに彼一人分くらいの食費を負担するくらいどうということは無い。 彼もそれをわかってやってくる。僕が本当に疲れて休みたい時には構わずに寝かせてくれるし、しょっちゅう散らかしたままなのが困りものだが、他に誰が訪ねてくるわけでもなし、迷惑だと言いつつもまんざらでもない自分もいる。 いや、ずっと迷惑だとは思っていた。だが、サリちゃんを殺した事実に平常心を保てなくなりそうな今、彼が傍にいると気がまぎれていい。 僕がサリちゃんを殺したのは、この部屋なのだから。一人でいると、色んなことを考えてしまって寝付けなくなりそうだった。 「とりあえずレトルト牛丼しかないけどそれでもいいか?」 「いっす。何でもいいっす。あーチェンジか」 テレビを観たままの守也くんを尻目に、カウンターキッチンに立つ。鍋に湯を沸かし、レトルトご飯をレンジに入れる。そういえば冷蔵庫にトマトがまだあったはずだ。牛丼だけよりはマシかと、冷蔵庫から取り出して切ることにする。体力と時間に余裕があればもっとちゃんとしたものを作るが、守也くんはレトルトでも文句言わずに食べるから今日はこれでいいだろう。 「……」 取り出した包丁の刃をじっと眺める。 僕はこれで、彼女を刺した。 よく洗浄した後にそのまま使っている。当然気分の良いものではない。気分の良いものではないが、外に捨てて足がつくのも避けたいし、買ってそれほど経ってないのに無くなったことを守也くんが不自然に思っても困る。 トマトを食べやすいサイズに切って、オリーブオイルとバルサミコ酢と塩、黒コショウをあわせてかける。マヨネーズを切らしたままだったのだ。 「……たまには自分で作れよな。なんで僕が全部やってるんだよ。部屋使わせてやってるんだから、メシ作るくらいのことはしてくれよ」 別に料理は嫌いではないのだが、この部屋の持ち主が誰であるか示しはつけておいた方がいい。 「オレ、家庭科とか真面目に受けてなかったっすけど、それでもいいっすか?」 守也くんの作るものに期待など抱くはずもない。 「前も言っただろ。料理は経験なんだよ。やらなきゃいつまで経っても出来るわけないんだから」 そう言いながら、守也くんの方に視線を向けて、僕は固まった。 守也くんの座る傍に落ちている、赤い輪っかのようなもの……。 ……ヘアゴム? なんで、ヘアゴムがこんなところに? 当たり前だが、僕も守也くんも縛るような髪の長さではない。そもそもヘアゴムを持っている男は少ないだろう。 ……サリちゃん? まさか。 彼女は長い髪をしていた。だがサリちゃんの持っていた荷物は全て彼女の遺体と同じ場所に隠してきたはずだ。 それに、散らかった大量の血痕を始末した時に、残ったものが無いか床もくまなく見たはずだ。なのに、何故……。 くそ、とりあえずあれが守也くんの目に留まらないうちに隠さなければ。あんなものが見つかったら怪しまれてしまう。 僕は、出来上がった牛丼とトマトをテーブルに運んだ。 「出来たぞ」 「ウッス」 立ち上がった守也くんと入れ違うように、彼が座っていた場所に向かう。彼がテーブルに向いているその一瞬の隙に、ヘアゴムを拾おうという魂胆だった。 「あっ……」 僕の足元には、守也くんが持ってきたギターが入ったケースがあった。ヘアゴムのことに気を取られて不注意だった足元がそのケースにぶつかった音を聞いて、守也くんが振り返った。 「ん? だいじょぶっすか?」 「……ああ、うん」 動揺した僕はついうっかり、視線を気になっていたヘアゴムの方に向けてしまった。守也くんの目が、僕の目線につられてヘアゴムを捕らえる。 「あっ……」 「……!」 ……まずい。 どう誤魔化そうか。女性が部屋に入ったことにするとか? 何かを留めるのに必要だったから買ったとか? 僕が唾を飲み込んで言い訳を考えている間に、守也くんは赤いヘアゴムを手に取った。 「オレのゴム。落としてたわ」 「え? ……君の?」 守也くんは子供っぽさの抜けない顔で得意げに言った。 「コレ、ギターのナットに付けるとカッティングのキレが増すらしいんっすよー。いらねー弦をミュートにするんす。トモダチに言われてさっき買ってきたんっすよ」 「ギターの……」 ギターのことはよくわからないが……そういうものだったのか。 僕が表情を張り付かせていると、守也くんが破顔した。 「あれ? マコっさん、ナニ焦ってんすか? 部屋に髪ゴム落ちてるくらい……あ、もしかしてオレいない間にロングのオンナでも連れこんだんっすか? いつの間にィー?」 「そんなわけないだろ……」 ケラケラ笑う守也くんを前に、僕も曖昧に笑う。 曖昧に笑いながらも、胃の底の方から重たい怒りがこみ上げてくるのを感じた。 もしかして、わかっていて僕をからかっているのか? 守也くんは無知ではあるが決して馬鹿ではない、聡い子だ。こうして一緒に過ごす時間が増えてそう感じることが多くなった。 痕跡は残さないように処理はしたが、血で汚れたカーペットは替えざるを得なかった。カーペットが以前と違っていることはわかっているだろうし、何よりサリちゃんを隠した場所は以前彼と一緒に訪れた廃屋だ。 つまり、僕の傍で一番僕の犯行に気付きやすく、遺体を発見しうる可能性があるのは守也くんなのだ……。 「まー、そうっすよね。マコっさん、女ッ気ねーし。もし…… ……!!」 僕は油断していた守也くんの体を足払いで投げて床に打ち付けた。 重い音がする。 そのまま体の上に跨ると、腕をスイングさせて頬を殴りつけた。 「…なっ……!? っで……!」 抵抗しようともがく手を取って膝で押さえつけ、更に力いっぱい頬を殴った。歯の折れる音がする。困惑と恐怖に彩られた目が僕を見る。 「マコっ…さ……っ…!」 逃れようと左右に首を振る守也くんの顔を殴り続けた。 そのうちに守也くんの口からは血まじりの唾液が垂れ始め、折れた鼻から流れる血と共に新しいカーペットを汚した。 抵抗する力が弱くなる。守也くんは始めは懇願するような目をしていたが、そのうちに焦点が定まらなくなっていった。 「痛いか?」 僕は、細いがしっかりと喉ぼとけの浮き上がった彼の首を、両手で締め付けた。酸素を失った顔が、見る見るうっ血していく。 苦しいのか、守也くんの指は震えていた。しかしそれでいて力強く、文字通りの必死さが僕の心をより昂ぶらせた。 テレビから歓声が挙がった。西武の中村が2ランを打ったようだ。その盛り上がりに呼応するように、僕の心も躍っていく。 守也くんの爪が僕の手の甲の肉を毟る。痛い。だがその痛みすら僕の感情の後押しをした。ばたつく足が、ドンドンと床を蹴る。 ああ、痛い。僕は生きている。 守也くんも生きようともがいている。 胸がギュッと締め付けられた。初恋を胸に抱いた生娘のように。 やがて守也くんの手は、力を失って床に落ちた。 全身を鳥肌が立つ。恐れではなく、喜びで。 「はははっ。……ははははははっ」 そうやって笑う僕の肩に、誰かが手を置いた。 「かけいさん」 ◆ 「筧さん!」 「……っ!!」 僕はビクンと体を振るわせた。 一瞬何が起こったのかわからず、目だけを瞬かせる。 「お。筧さん、起きました?」 「……」 すさまじい動悸と汗だった。 運転席には、土木作業員の格好で焼きそばパンを口に頬張るヒラの姿。 いつもの、張り込み中の光景だ。 そうだ……連続となってしまった強盗致傷事件で、犯人である可能性が浮上した男の自宅前で……。 今のは夢だったのだろうか。 息も荒く、首筋は重く痛んだ。覚醒を促すように、首を振ってみる。 「首、痛くなったでしょ? 思いっきり口開けながら首傾けて寝てましたからね」 「ああ……そうだったのか……」 確かに口の中がカラカラに乾いている。口を開けたままの寝顔を見られたことに若干バツの悪さを感じながら、居住まいを正した。 「よっぽど疲れてたんですかね。なんか悪い気がしたから起こさなかったんですけど、うなされ始めたから気になっちゃって起こしちゃいましたよ。 ……どうかしました? 汗すごいですよ。エアコン強めますか?」 ヒラは洒落た黒ぶちの眼鏡の位置を直した。探るような仕草だ。 「……酷い夢を見たんだ……。 ……悪い、ちょっと気分が。トイレに行ってくる」 「あっ、気を付けて」 僕は助手席を降り、表に出た。熱気と青臭い臭いが鼻腔を通る。この時期はこんなに暑かっただろうか。こんなに暑いと、それだけで更に体がだるくなってくる。僕の隠した遺体もかなり腐ってきていることだろう。過去に見てきた腐乱死体の様を思い浮かべて更に気分を悪くした。 ふらつく足のまま、すぐ傍にある公園の薄汚い公衆便所に向かった。 「…ぉえっ……!」 個室に辿りつくまでに喉をこみ上げる衝動に堪えきれず、僕は洗面台に胃の内容物をぶちまけた。 なんなんだ。 なんだんだ、あの夢は……! 考えれば考えるほど吐き気がこみ上げてくる。 髪の間から浮き出た汗が顔を伝って口元まで流れ込んできた。 一通り吐ききると、蛇口を捻って吐瀉物を流した。気分を晴らす為に顔も洗う。ハンカチは車の鞄の中だったな……と、濡れたままの顔を上げて、鏡の中の自分と目が合った。 ゲッソリとやつれた、艶のない髪の作業服姿の男。目の下の影はどれだけ寝ても消えることはなくなり、目尻にうっすらと皺も寄っている。日に焼けた肌はキメも粗い。昔に比べるとヒゲの剃り跡も濃くなった気がする。 僕はこの男をよく知っている。僕の記憶の中にある、僕を殴りつけていた頃の父の顔にそっくりだ。子供の頃はあまり父に似ていないので母親似なんじゃないかと花井さんに言われたが、歳を取り頬の肉が落ちてくると、父と同じような骨格が浮き出てきた。忌み嫌っていたはずの男の血が、この身に流れているという現実を突きつけられて、再び喉を苦い胃液が刺激する。 まさに、あの男だ。守也くんに暴力を振るって喜んでいるあの姿。首を締めた感触と、体の中を駆け巡った切なさと喜びが、今も指先に残っている。 そうだ。サリちゃんを殺した時も、僕は、僕の中に父の姿を見た。 本当にあれは夢だったのだろうか。サリちゃんと同じように、守也くんも手にかけてしまっていないだろうか。あれが夢であったという確証も自信もない。それくらい生々しい感覚だった。 僕はすぐさまポケットの中から携帯を取り出して、守也くんにメールを送ることにした。バイト中もこっそり携帯を所持しているという彼からの返信は、いつもびっくりするくらいに早い。彼が生きているのなら、すぐに返信が来るはずだ。 『無事か?』と打ち込みたいところだが、大袈裟過ぎるだろう。『今日も来るの?』と取り留めの無い一文だけ入力して、送信した。 そうして一息ついて、鏡から目を背けるようにうな垂れた。 なんてざまだ。サリちゃんを殺してしまってからというもの、僕は相当、精神的に参っているようだ。早く車に戻って、ヒラと張り込みを替わってやらなければ。 「なー、コウちゃーん、マッチョレス家に置いてきていい?」 「おめー、マッチョレスって何だよ! 変なとこで噛むなよなー」 「ぎゃはは! マッチョレス! ぎゃははははははは!」 公衆便所の前を、中学生らしき4人の少年達が通った。 騒々しいが、張りのある肌と声は若さに満ちている。彼等の姿は日差しを受けて輝いて、公衆便所の洗面所で嘔吐した惨めな30過ぎの男の姿とは対照的な強いエネルギーに包まれていた。 僕もあれくらいの頃は、どうでもいいことにもくだらないことにも笑えていた。いつの間にこんなに物事を面白いと思える感覚が摩滅してしまったのだろう。あの頃に比べて知識も視野も広がった。普通に考えれば、広がった視野の分、楽しみは増えるはずだ。しかし得られたのは、物事を理屈で捉えようとしてしまって素直に楽しめない、凝り固まった心だ。 僕はかつて、白寿島で犯罪行為を行おうとしていた守也くんをたしなめ、止めさせた。僕らの周りは小さな幸せで満ちていると。その小さな幸せがあれば苦しいことも乗り越えていけるのだと。 あんなのは、僕が僕自身に言い聞かせてきた詭弁に過ぎない。目の前の小さな幸せで満足出来るほど大人の欲は浅くないし、小さな幸せなどで圧倒的な絶望に抗えるはずがない。守也くんが乗り越えられたのは、彼が若く純粋であったからだ。 だが、そう考えてふと、60を過ぎているはずの花井さんのことを思い出した。彼女が昔から追いかけているという好きな俳優の話をする時は、まるで少女のように高揚した顔になる。ふくよかな彼女は肌の張りも艶もよく、歳より若く見えたし、明るくて周りを元気にしてくれる人だ。僕も何度彼女の明るさに救われたかわからない。弱々しくて道場の同級生にからかわれて泣いて帰ってきた僕を、生き生きとした笑顔で迎えてくれた母。あの人の生命力は、今の僕よりも遥かに強いように思えた。 僕も、あの人のように本当に夢中になれるものを見つけられれば、また素直に笑えるんだろうか。人を殺してしまった現実と、身体的なピークを折り返し、これからただ老いていく身であるという絶望の中で。 守也くんからの返信はまだ来ない。
忘却と白き桜の下 桜が、咲き始めていた。 もうそんな季節だったのかと、僕は驚く。 となりにいるネズとキリコも、桃色というよりは限りなく白に近い桜の花びらに目を奪われている。無理もない。やっと春になり、冬眠から覚めたはいいが未だ寝ぼけた生き物たち。桜は、そんな僕らにその鮮烈な色で春への自覚を促してくれる存在なのだ。 強風に揺られた花びらたちは、今はまだ散るもんかと力強く枝にしがみ付いていた。散る桜は言うまでもなく美しいが、こうして風に耐える桜というのもまた風流だ。 やがては一斉に散る運命。ただのやせ我慢かもしれない。だけど、いつか来る運命の時まで精一杯咲き誇る桜の花は、あまりにも美しく、見る者を魅了してやまない。僕は、その雄々しい姿に心を打たれてしまったのか・・・・・・不思議と涙があふれてくるのを感じた。 桜の花たちが、風に揺られている。 ひらひらと、白の細片が舞い踊る。 力強いそのさまを、僕は見ていた。 美に対する感動。 それが、僕が涙を流す理由。 ・・・・・・本当にそうだろうか。 こうして涙が流れる理由は、美しい桜の姿に感動したからではなくて、なにか、絶対に忘れてはならないことを、忘れてしまったからのような・・・・・・その忘れてしまったことが、僕に訴えかけているのかもしれない。 どうして私のことを、忘れてしまったの・・・・・・と。 これほどまでに涙が流れるのだ。きっと、とても大切なことだったに違いない。きっと、死んでも忘れたくないと思っていたに違いない。 僕は、白く優美な桜を改めて眺める。 桜の下には、死体が埋まっているという。 それを最初に言い出したのは誰なのだろう。桜は埋められた人の想いや身体を力にするから、儚くも妖艶に狂い咲くのだろうか。赤黒く染まる人の血を吸ったにもかかわらず、桜の花びらが澄んだ色をしているのはどうしてなのだろうか。 僕は急に桜の木の根元を掘り返したくなる。まさか人の死体が本当に埋まっているわけはないだろうが、もしかしたら・・・・・・忘れてしまった大切な何かが、埋まっているかもしれない。 とめどなく流れ続ける涙・・・・・・僕は、どうして忘れてしまったのだろう。あれほど忘れたくないと思っていたはずなのに。それだけは、どうしてかわかる。どれだけ時間が経っても、それによって自分の心の在り方がどれだけ変わったとしても、決して忘れたくないことが、僕にはあったのだ・・・・・・。 「・・・・・・。どうして、泣いているんだ?」 ネズが心配そうに声を掛けてきた。僕は、鼻水をすすって問いかける。 「なあ、ネズ・・・・・・こんなにも涙があふれるのは、一体どうしてだと思う?」 「・・・・・・。俺に聞くな。なんだ、訳も分からず泣いているのか?」 「ああ。僕自身にもわからないんだ」 僕がそう言うとキリコが難しそうな顔をしてつぶやいた。 「もしかして」 「もしかして?」 僕は泣きながらごくりとつばを飲み込んだ。 「ノヴシゲって花粉症なんじゃないの?」 「・・・・・・」 そうだ、思い出した。 僕は今朝、花粉症の薬を飲み忘れていたのだ。だからこんなにも涙があふれて・・・・・・。 僕は花粉症の薬を取り出すと、ペットボトルのお茶で胃の中に流し込んだ。 「・・・・・・。ビンゴか、人騒がせだな」 「ホントだよ。何事かと思っちゃった」 ネズとキリコは僕に笑いかけてくる。僕も、泣き笑いの表情で返した。 だけど・・・・・・。 それからいつまで経っても涙は枯れることがなくて・・・・・・。 どうして・・・・・・やっぱり、僕は何かを忘れたままで・・・・・・? 「あ。ノヴシゲ、ネズ、見て! あの桜の木、大きくて綺麗だよ!」 そんなキリコの声で無意識に導かれて、僕は顔を上げて、その桜の木を見た。 どこか、見覚えがあった。 その太い幹。透き通るように白い桜の花びら。すこしだけ垂れ下がるような枝。昔、その桜の木の周りを、何度も何度も走り回った気がする。それは、僕一人だけじゃなくて、誰かと一緒に・・・・・・。 「あ・・・・・・」 見えた、気がした。 その桜の木の根元。行儀よくお尻を落として、舌を出しながら、その無垢な瞳で、僕を真っ直ぐに見つめる白い犬を・・・・・・。 「・・・・・・」 今度こそ、本当に思い出した。 僕がまだ小さかった頃。桜の木の元に埋めたのだ・・・・・・死んでしまったあの子を。白い毛並みの小さな身体と、大きな耳と、くるんと回ったしっぽを持って、僕の後ろを嬉しそうに追いかけてきたあの子を・・・・・・。 僕は、好きだった。 本当に好きだったのだ・・・・・・あの子のことが。 僕らと違って長く生きられないことはわかっていたけど、それでも、ずっと一緒にいたいと願ってやまなかったんだ。 どうして僕は忘れていたのだろう。あんなにも大切に思っていたのに。日々薄れゆく記憶。それは当たり前のことだけど、言い訳にはできないし、したくもない。 僕はその桜の木の下に立ち、上を見上げる。まるで空を覆い尽くしてしまいそうなほどの鮮やかな白。その色に、どこかあの子の面影を感じて。僕は唇を噛み締める。 あの子は、僕に出会えて幸せだったのだろうか。少し時間が経ったくらいで、君のことを忘れてしまっていた僕と一緒で、本当に幸せだったのだろうか。 心臓を悪くしたあの子。食欲を無くしていったあの子。足元もおぼつかなくなったあの子。苦しそうに何度も悲鳴を上げたあの子。きっと、必死で訴えていたのだろう。それでも僕は、あの子がいなくなる瞬間も、まるで他人事のように、あの子のいた部屋とは別の部屋で一人でTVゲームをして笑っていたのだ。 気が付いた時には、あの子は・・・・・・たったひとりぼっちで、死んでいた。あれだけ痛そうに泣いていたのに。僕は気が付いてやれなかったのだ。それが、悔しくて仕方がなかった。 苦しかっただろうに、寂しかっただろうに、せめていなくなる瞬間だけは、抱いていてあげたかった。暖かく、安らかに、せめて・・・・・・。寂しい気持ちで、あの子を・・・・・・死なせたくなかったのに。僕は、ずっと後悔し続けて・・・・・・いつの間にかその記憶を消してしまったのだ。 僕は・・・・・・馬鹿だ。 「・・・・・・。ん?」 「・・・・・・どうしたの、ネズ」 ネズは目元をごしごしと擦った。 「・・・・・・。いや、お前の足元に、白い犬がいたような気がしたんだが・・・・・・」 「あ、わたしも見えたよ! 偶然だね」 キリコはそう言ってはしゃいでいる。僕は二人に恐る恐る問いかけた。 「・・・・・・その犬、どんな表情をしてた?」 ネズとキリコは顔を見合わせると、柔らかな笑みを浮かべた。 「わたしには、楽しそうに尻尾を振ってたように見えたよ」 「・・・・・・。ああ、すごく嬉しそうな顔をして、お前を見上げていたよ」 「・・・・・・そっか」 僕は、まぶたを閉じた。 僕とって、あの子といた日々は幸せそのものだった。僕は、あの子といる時は自然と笑顔になっていた。そして、あの子も・・・・・・。あの、嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねて、思いっきりしっぽを振っていた愛らしい姿。あの子は、見ているこっちが楽しくなってしまいそうな、そんな姿でいつも僕と一緒にいた。 それはきっと、僕との生活を幸せに思っていてくれていたからで・・・・・・。 「・・・・・・ごめんな、忘れていて」 「・・・・・・。何か言ったか?」 「いや、何も。そろそろ別の場所にいこっか」 「うん、そうだね」 僕はその桜に背を向け、歩き出す。 僕は、あの子のことをまた忘れてしまうかもしれない。その時は、またあの子に「どうして私のことを忘れてしまったの」と言われてしまうかもしれない。 いや、きっとあの子はそんなこと思ってもいないし、言いもしないだろう。ただただ僕が、あの子のことを忘れてしまいたくないだけなのだ。 だから、今度こそあの子の記憶を心に刻み込む。あの子との素晴らしい日々を、二度と忘れないように。 「ネズ、キリコ。実はさ、僕って小さい頃白い犬を飼ってたんだけど・・・・・・」 あの子が幸せでいてくれたことに気が付けたのだから、今度こそ、僕は忘れずにいられるだろう・・・・・・きっと。 桜の花びらのように白い、あの子の姿を・・・・・・。
みぎわにたゆたえば 毎日何もすることが無いと、ボヤッとした感覚がまとわりついて、全てにおいて現実味も興奮も無くなってくる。 今日が何月何日であるかというのも、今の僕の生活には無関係であるのではっきりとは認識しなくなってきた。とりあえず外から聞こえるようになってきた蝉の声と、じっとりとまとわりつくような空気でおおよその季節を把握しているくらいである。 僕の部屋にはテレビは無く、外界との接点は唯一、パソコンとスマホ程度だ。部屋のドアから外には必要以上には出ない。 階下には母さんがいるが、食事の時くらいしか顔を合わせない。自堕落生活を続ける僕に説教する気も無くしたのか、腫物に触るようなやんわりとした態度で一言二言話しかけるくらいだ。 まあ、僕が好きでこんな状況になったのではないことを理解してくれて、僕の気が済むまではそっとしておいてあげようと言ってくれるようになった分だけ、父さんよりはありがたい。 このまま何かがあって僕がこの部屋の中で死んだら、どのくらいの人間が悲しんでくれるのかな。 ベッドに寝転びながらふとそんなことを思った。僕とつながりがある人間とは縁遠くなってきたから、あんまり多くの人を悲しませなくて済むかもしれない。僕が死んだことを知らなければ、その人の中で僕は生きているし、僕の存在すら知らなければ、最初からその人の中に僕は存在しない。 はあ……こんな生活を続けていてはいけないとはわかっているのに。 それでも一度落ち込んだ気持ちを奮い立たせるには刺激する何かが足りなかった。 とりあえず、外界から遮断された空間で、小さな刺激を求めて時折スマホに手を伸ばす。 閲覧するのは、ニュースサイトだったり、某掲示板だったり、おなじみの廃墟サイト『RUINS』だったり、……アダルトサイトだったり……、まあ、気が向けば何だって見た。 そうやって色々とリンクを踏んで見ていくうちに、やや悪趣味な事柄をまとめたサイトに行きついた。 人は負の感情に自ら望んで浸りにいくことがある。 僕がそのサイトを見ようと思ったのも、自分の中のほんの小さな好奇心だった。 ……ノックが。 僕の部屋のドアをノックする音がする。 母さんか? 母さんだったら、僕が行くまで勝手にドアを開けることはない。父さんならわからないが、こんな昼間に父さんがいるはずがない。 僕は怠い体を起こしてドアを開けに行った。 ノブに手を伸ばして軽く捻ると、外から強い力で引っ張られた。 「ノヴシゲさーん!」 「わあああ!」 大きな声を張り上げられて、僕は思わずのけぞった。 廊下に立っていたのは……久しぶりに会うので一瞬誰かわからなかったが、『RUINS』のオフ会で出会ったユリカちゃん、海清さん、Χくんの3人だった。意外な人達の組み合わせであり、彼女達が僕の家を訪れるのも意外だった。 「ユリカちゃん……、どうしてここに……?」 僕は部屋着にしているジャージにTシャツ、寝起きのボサボサ頭だ。しかも部屋はものすごく散らかっている。そんな部屋や僕の姿を見られるのを一瞬恥ずかしいと思ったが、男であるΧくんをはじめ、彼氏持ちのユリカちゃんや弟のいる海清さんならひょっとして理解してくれるんじゃないかと思って、ひとまず冷静になった。 「やだなあ、ノヴシゲさんが呼んでくれたんじゃないですかー」 「……え?」 「呼んだ張本人なんですから、ちゃんと部屋に入れてくださいね? ボクらが座るスペースくらいはあるでしょう?」 以前より少し大人びて、体の節が目立ってきた様子のΧくんがそう言った。相変わらず男にしては可愛らしい顔はしているけど。 ……そうか、僕が呼んだのか。 僕は床に転がるものを寄せて3人の座る場所を確保した。3人が座ると僕の居場所が無くなるので、僕はさっきまで寝ていたベッドに腰掛けた。 「ふふ、男の子らしい部屋ね、ノヴシゲくんの部屋って」 もう30近いはずだが、相変わらず綺麗な海清さんにそう言われると、恥ずかしさとは別の感情が僕を襲う。 「男がみんなこんな部屋だとは思わないで下さいね。ボクの部屋はちゃんと片付いてますし、こんなに臭くないです」 Χくんも相変わらずの毒舌で僕を刺してきた。 「臭いかな……?」 「臭いです。牛乳拭いてそのまま放置した雑巾みたいな臭いがしますよ」 「そ、そんなに臭いか? 一応、布団とかはたまに洗ってもらってるんだけど……」 僕はクンクンと自分の体を嗅いでみた。臭いというものは慣れてしまうものなので、僕が気づかないうちに臭っていたとしても不思議ではない。 ……そういえば、少し腐ったようなツンとした臭いや、何かが焦げたような臭いがするような気がする。 僕はエアコンをつけたまま、窓を開けることにした。 「ところで、何をしに僕の家に来たんですか?」 僕は3人に背を向けたまま言った。 「あら、ノヴシゲくんが呼んだからって言ったじゃない」 海清さんの声が背中に触れる。 「そうですけど……、僕、みなさんに約束し」 「一磋もね、私を呼んだのよ。店を追い出されたからって」 僕の言葉は海清さんのやや強い調子の声に掻き消された。 「待合旅館を転々と……。行き場のない私達だったけど、それでも幸せだったの。愛していたから」 ……。 海清さんは何を言っているのだろうか。僕の記憶違いでなければ、一磋さんは弟じゃなかったか? 『愛していた』ってどういうことだ? 海清さんは、まるで恋人のように一磋さんを語る。 「あの……一磋さんって弟さんですよね?」 僕がおずおずと聞くと、海清さんは目を丸くした。 「何を言ってるの? 一磋が弟のはずがないじゃない」 「……はあ」 僕の記憶違いだったようだ。 「あたしの愛した人にも奥さんがいたけど、海清さんもなんですね~。好きになっちゃったらどうしようもないですよねっ」 「ボクは、不倫はあまり感心しませんね。遺産相続の時に揉める原因になりますし」 僕を置いてけぼりにして3人は勝手に話を進めていく。僕は振り返って3人に向き直った。3人はニコニコとしていた。 「あの人はね、首を絞められるのが好きだったの。そうすることでより快感を得られるんだって」 「マゾですか。意外と一磋さんのような、一見たくましそうな人がマゾだったりするんですよね」 「あはは、あたしも一磋さんいじめてみたかったなあ~」 「でもね、ある時、締めすぎてしまったの。ううん、わざと締めたのよ。あの人は世間的には私のものではなかったから。こうすれば、私のものになると思って」 海清さんの手が彼女の持っていたカバンの中に伸びる。 彼女は、毬のような大きさの、紙に包まれた何かを取り出した。 「……あの人を殺して、私はとても楽になったわ。重荷が私の肩から持ち上げられたみたいに」 その紙は、赤黒く汚れている。海清さんはそれを愛おしそうに頬ずりした。 「これは、私の一番かわいい大事なもの……。手放したくないの」 うわあ……。 僕は、女は怖いなと思った。 「あたしもそうやって絞められたのかなあ。あたしのこともかわいいと思って、首を持っていったのかなあ」 ユリカちゃんが憂いを帯びた表情で海清さんの手の中のものを見る。 「ユリカちゃん……!?」 ユリカちゃんの服の胸元が、服の内側からにじみ出したように血で赤く染まっていた。首からも血が流れている。いや、まるで切断された首が元の位置に乗っけてあるだけのように見える……。ユリカちゃんはそんな状態でケタケタと愛らしく笑う。 「お二人はそうやって、愛することも愛されることも出来てうらやましいですよ。ボクはそういうものを感じなかったから、誰でも良かったんです。 誰でも良かったけど、結局27人も襲っておいて殺すまでに至らなかったのは本当に甘かったと思います。怪我もしてしまったし」 Χくんは包帯の巻かれた指先をかざした。 はあ……。 3人は苦労話をしに来たのだろうか。 僕は悲惨だな、と思うだけで特に同情する気持ちは起きない。彼女達の存在は僕からは遠すぎた。 もっと近い存在なら、同情もするのかもしれない。 たとえば……ネズやキリコなら。 「あ」 僕は立ち上がった。 ……僕はふと思い出したのだ。 「僕は……キリコと、ネズのところにいかなくちゃいけないんだ」 3人は僕を見ると、顔を見合わせてまたニコニコと笑い出した。 「約束を忘れちゃダメですよ~」 「早く行ってください。ボクらのことはいいですから」 「また遊びに来るから、いつでも呼んでね?」 僕はジャージ姿のまま外に出た。 外はジリジリとした太陽の光が照りつけて暑い。暑い、というより熱い。そして喉の奥まで一気に流れ込んでくる湿気。 こんなところで5分も歩いたらすぐに喉が渇いてしまうだろう。 僕は自分が何も持たずに出てきてしまったことに今更ながら気づいた。慌ててポケットをまさぐると、100円玉が一枚だけ入っていた。これではペットボトルも買えない。 とりあえず僕は目についたコンビニに入って、パックのジュースを掴んでレジに持って行った。 「あれ? ノヴシゲさんじゃないっすか!」 レジの中に立っていた、不自然に灰色に染められた頭……FMSくんだった。 「ども! お久しぶりっすね」 「ここでバイトしてたのか」 「うっす。あ、これっすね。82円になりまーす。Tポイントカードはお持…、あっ…、100円からだったっすね」 「おいおい……、ちゃんとやれてるのかよ?」 「あー、まだここ入って3日目なんすよ。100円以下の会計って少ないですし」 「……ちょっとしか買わなくて悪かったな」 「ところで、ノヴシゲさんどっか行くんすか? キャリーバッグなんか持って」 FMSくんに指摘されてふと脇を見ると、僕のキャリーバッグがあった。卒業旅行でタイに行った時のステッカーもそのままだ。タイは最高に面白かった。 「ええと……これから飛行機に乗るんだよ。ネズ達と」 そうだそうだ。 僕はまた、ネズやキリコと…近遺研のみんなと一緒に、飛行機に乗らなければならないんだ。 「飛行機っすか! いいっすね! 空と海って、男のロマンが詰まってますよね!」 飛行機と聞いて、FMSくんの顔が綻んだ。あれ、こいつこんなに飛行機好きだったのか。 僕の顔を見て察したFMSくんは、バーコードリーダーを持ったまま答えた。 「あー、実はっすね、実家から軍港が見下ろせたんっすよ。だから、ガキん時から海軍に憧れてたんすよね。 オレ、長男だったけど、デキが悪かったから。家継ぐのはちょっと重荷だったんすよ。妹がしっかりした男連れてくればそれでいいかなっつって。 んで、志願したんすよ。頭悪いなりに頑張って覚えたんすよ、操縦。訓練では殴られることもあったけど褒められることも結構あって」 「……へえ」 「でも駄目でした。オレみたいなバカが花咲かせられるほど甘くなかったっすよ。 届かなかったんす。目の前に見えてるのに、あとちょっと届かなかったんす。あとはもう、一気に真っ暗で。 あっ、いらっしゃいませー」 僕の後ろに他の客がいたので、FMSくんはその相手を始めてしまった。見ればいつの間にか結構な行列だ。 僕は邪魔にならないようにFMSくんと目を合わせて軽く会釈だけするとコンビニを後にした。 さて、飛行機……とは言ったが、一体どこの空港から乗るんだったか。 どこで待ち合わせしていただろうか。 「羽田にいくのかい?」 不意に声を掛けられて振り返る。 炎天下の交番で、暑そうにしている制服姿の……ペケ蔵さん? 「え? あ、そうです。羽田空港に行かなきゃいけないんです」 ペケ蔵さん、いつの間に交番勤務になったんだろう。それはともかく、僕は思っていたことを口に出してしまっていたようだ。 ペケ蔵さんは帽子を深くかぶり直して僕の背後を指差した。 「あの先にタクシー乗り場があるから、そこからタクシーに乗るといいよ。電車の方は人身事故で止まってるみたいだし」 「人身事故ですか」 「うん。自分から飛び込んだみたいだ。ツイッターで近くの客が撮った壊れた車体の画像も回っていたよ」 ……おいおい、ペケ蔵さん、勤務中にツイッターやってるのかよ。 僕はふと、自分のスマホが軽く震えたことに気付いた。画面を見ると、ネズからの着信通知だ。そこには顔文字も絵文字も無く、ただあっさりと一言だけ書いてあった。 『来るな』 ……来るな? 僕達は待ち合わせしているはずなのに、来るなとはどういうことだろう。ネズと喧嘩なんかしていないし、……もしやネズに何かあったんだろうか。 「自分から死ぬなんて、本当に馬鹿だよなあ。生きたくても生きられなかった人もいるのに。 ……本当に寒くて、今日とは正反対の雪の日だった。もう足の指の先が冷たくなってて。 突入命令が出た時、ちょっと足がもつれちゃってさ。盾も二枚持たされてたし歩きにくかったし。でも、絶対に捕まえてやるんだって、奮起してたんだよ。 そしたら、目の前で中隊長まで撃たれてさ。目から血を流す中隊長を見て思ったよ。『ああ、イデオロギーってのはなんて厄介なんだ』って。奴らの頭にも銃弾を撃ち込んでやりたいって。 本気で人を殺してやりたいなんて思ったのは、後にも先にもこの時だけだったね。こっちは隊長も中隊長もやられたんだ。9機になんかやらせたくない。この手であいつらをぶち殺して引き裂いてやるって。 ……そんな風に冷静を欠いちゃったから、撤退させられたんだけどさ」 「……はあ。警察も頑張った時があったんですねえ」 「結局1人助けるのに2人死んだ。民間人も含めたら3人だ。怪我人はどれだけいたか数えられないくらいだった。隊長は生きて、娘さん達の行く末を見たかったと思うよ。覚悟はあったろうけど、無念だったろうと思う。 そんな風に消えていく命もあるのに、何があったのか知らないけど、命を投げ出して、他の人に迷惑をかけるなんてさ。本当に馬鹿みたいだ」 「あの、僕急いでるんです」 「ああ、ごめんね。引き留めて悪かったね」 「ツイッターもほどほどにしといた方がいいですよ」 「あはは、実は署の公式アカウントを任されてるんだ」 「はあ、そうなんですか。じゃあ今度ペケ蔵さんのアカウント探してみます」 「フォロー頼むよ」 僕は敬礼するペケ蔵さんを尻目に、タクシー乗り場へと急いだ。 タクシー乗り場には一台だけタクシーが停まっていた。 僕が手を挙げ、自動でドアが開いた後部座席に乗り込もうとすると、同じくそこに乗り込もうとする大きな人影。 「おっとぅ! これは、ノヴシゲくんではありませんか」 ……ああ、穴山さんじゃないか。 「悪いですけどね、このタクシーは譲れませんよ。ボクはこれから大井競馬場に行かねばならんのですっ」 「ああ……ええと、僕は羽田空港に……。あの、僕も急いでいるんです」 「羽田と大井競馬場なら同じ方向ですから、一緒に乗り合わせればいいではないですか」 タクシーの運転手が振り向いた。 「あ! 満月さん」 「どーもー、お久しぶりでございます」 相変わらずのマスクとサングラスだ。車内なのに目深にかぶったフードも健在だ。 「お急ぎなんでしょう? 出来うる限り飛ばしますから、早く乗って下さい」 「そうですな。確かに同じ方向です。ノヴシゲくん、ご一緒させて頂きますぞ」 「あ、はい」 僕らを乗せたタクシーは、やがて首都高に入った。 「満月さん、タクシードライバーだったんですね」 「ははは、これは趣味ですよ趣味。趣味で休日に個人タクシーやってるんです」 「え!? 趣味で個人タクシー!? じ、じゃあ、本業は何をやってらっしゃるんですか?」 「それは、ヒ・ミ・ツ★です」 ……本当に謎だなこの人。 「大井までどのくらいで着きますかねえ」 穴山さんが満月さんのヘッドレストに手を掛けながら聞いた。 「この調子だと、遅くとも小一時間ってところでしょうか」 「ノヴシゲくんも急いでるんでしょう? 飛行機は何時ですかな?」 「あ、えっと……。わからないんですけど、とりあえず急いでます」 曖昧な言い方をしてしまって、何か突っ込まれるかな……と思ったが、2人はそれ以上のことは聞いてこなかった。 よかった……僕自身が自分の行動がよくわからない。 なんだかひどく曖昧で、何をするのにも実感が湧いてこない。 だが……それは今までの生活の延長にも思えた。何をするわけでもなく、ただ茫然と食っちゃ寝て過ごし、同じことを繰り返す毎日の。そうやって過ごしてきたこれまでを考えれば、こうして遠出している今はよほど刺激的な『延長』だ。 僕はふと思い出して、さっきコンビニで買ったジュースを飲み始めた。色んな人と再会したせいで忘れてしまっていた。 僕がジュポッとストローを啜ると、穴山さんがじっと僕の方を見ていることに気付いた。 ……ジュース、欲しいんだろうか。喉でも乾いているんだろうか。 「……少し飲みますか?」 おっさんと間接キスはちょっと気持ちが悪いなと感じつつも、熱中症になられても困るので一応聞いてみた。 「おおっ、気持ちはありがたいですが大丈夫ですよ。ボクね、前に人からもらって口にしたものでとんでもないことになったので、人からもらったものは食べないことにしてるんですよ」 「僕は毒なんか盛りませんよ。さっきコンビニで買ったばかりですし」 僕はちょっと気分を悪くしたが、冗談じみた声で返した。 「いやあ、あの時もね、信用してしまったんですよ。信用してしまったのが悪かった。 行員や用務員一家には悪いことしました。坊やまで巻き込んでしまって。ボクも一緒に死んでしまえば良かったんです。毒の地獄のような苦しみから解放されたと思ったら、非難の嵐で。 当たり前ですな。ボクが安易に受け取ってしまったせいで、12人も死んだ」 ……何か聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。変わり者だが底抜けに明るそうな穴山さんが、表情を硬くしてしまった。 「永田町です」 満月さんが、前を向いたままそう言った。高架高速道路の上から見ると、ビルの立ち並ぶ東京でも空が少し広く感じられる。 「ワタクシはですね、ガチャンガチャンとガラスが割れる音で目が覚めました。 変な臭いが立ち込めていましてね。ドアを開けたら、廊下が火の海だったんです。誰かが叫んでる声が聞こえたんですけど、なんて言っているのかわかりませんでした。 ワタクシは廊下には出られないと思って、窓際に行きましたけど、もう熱くて熱くて。我慢できないほどの熱風が吹きつけてくるんですよ。窓のサッシもフライパンのようで。 そうこうしているうちに火が迫ってきまして。このまま飛び降りてしまおうか、本気で考えたんですよ。飛び降りて死ぬか、焼け死ぬかという状況でしたから。最終的には……」 そこまで言いかけて、満月さんは口をつぐんだ。僕は、満月さんのマスクとサングラスの隙間から、爛れた皮膚が覗いているのを見つけてしまった。 ひとしきり黙り込むと、満月さんは再び口を開いた。 「人の命より利益を優先する。そんなことをしていると、いつか大きな悲劇に見舞われてしまうものです。人は大それたことをしようと前だけを見ますが、肝心の足場をいい加減にしていることが多い。歩みはゆっくりでいいものを。 外見だけ立派なホテルも、中身はスカスカだったと言うことです」 「嫌ですなあ。発展することは良いことのようですが、我々はそれに伴って大事なものを置いてきてしまったような気がする。このようなビルの群れも、所詮はバベルの塔なのかもしれませんなあ」 ……これは所謂、懐古厨というやつだろうか。面倒くさい話になってきた。 その後も2人の『昔は良かった』話は穴山さんを降ろすまで続いた。 穴山さんを降ろすと、途端に車内は静かになった。ふと、また着信があることに気付く。 『来るなと言ったのに、どうして聞いてくれないんだ』 ネズだ……。 僕は、『どうして?行っちゃいけない理由はなんだよ』と返した。どのみちもうすぐ着くのだ。理由は直接聞けばいい。 空港に着くと、僕は満月さんにお礼を言って車から離れた。タクシー代は大井競馬場までの分を穴山さんからもらったからいい、とサービスしてくれた。謎な人物だが太っ腹だ。 「ノヴシゲ、久しぶり!」 広い空港内で苦も無くキリコ達に出会うことが出来た。よく出来過ぎていて夢を見ているようだ。 久しぶりに見るキリコは大人っぽくなっていて眩しい。隣にいるネズも、端正な顔だちは前より少しやつれて引き締まって見えた。2年間で歳を取ったということか。 「ネズ、さっきのメールはなんだったんだ?」 「……メール?」 ネズは相変わらずの眠たそうな声で言った。 「『来るな』ってやつ……」 「……知らないぞ。なんのことだ?」 知らない? そんなはずがないだろう……と思ったが、とりあえず、キリコが時間が無いと言うので急ぎ飛行機に乗り込むことになった。 途中、ブルブルとスマホが震えているのを感じたが、久しぶりに会った2人との会話が弾んでいたので特に見ることもなかった。 座席に座り、シートベルトを着用する。飛行機は久しぶりだ。 「大阪に着いたら、まずどこに行こうか?」 「大阪……。大阪に行くんだっけ?」 ネズの言葉に僕が返すと、キリコもネズも意外そうな顔をした。 「やだノヴシゲ、自分が『大阪に行きたい』って言ったんじゃない」 「え? そうだっけ?」 「……急に言い出すから急いでチケット取ったんだぞ。このお盆シーズンに」 そうだったろうか……。 よくわからない。 なんだか頭がぼーっとする。 飛行機は離陸体制に入ったようだった。 キリコとネズは2人で他愛もない話をしている。 僕はふと、機内モードにしようかとスマホを手に取った。 着信メッセージがあった。ネズからだ……。 僕はネズを見たが、ネズはキリコとしゃべったままだ。 そんな2人をよそに、メッセージを開封する。 『もう手遅れだ。お前の中で、俺達は死ぬ。そしてお前も』 ……なんだ? 僕はネズに問いかけようかと思ったが、表だって聞いたところで先ほどのようにとぼけられそうだ。僕は、メッセージに返信することにした。 『どういうことなんだ? 僕が何をしたっていうんだ?』 僕が返信すると、飛行機は離陸を始めた。体がぐっとシートに抑えつけられる。 ……着信があった。 ネズは……スマホをいじった様子はない。 ではこれは、ネズからのメッセージではないのか? ……だが送り主のところには相変わらずネズの名前がある。 『世界は認識の数だけ存在する。 お前にとってはほんの些細な好奇心で覗いた事件史でも、お前がそれを読んで知ってしまった時点で、お前の世界の中に俺達が生まれる。 そして文章の通り、悲惨な目に遭うことになり苦しみを味わう』 『何をわけわからないことを言ってるんだ? 世界がたくさんあるって? 厨二乙wwwww』 僕がすかさず返信を返すと、チャットのように素早く返事が来た。 隣のネズはやはり何もいじってはいない。このメッセージは、一体誰からのものなんだ……? 『お前が見ている世界が他人の見ている世界と絶対同じだなどとは言えないだろう。他人にはなれないから。 お前が見ている≪黄色≫が他の人間の見ている≪黄色≫と同じとは限らないし、それを同じものだと証明する術もない。だから世界は、それを認識している生き物の数だけ存在する。 お前がこれらの、生まれる前の事件史とされるものを知ったのは、誰かが書いてウェブ上に載せたものをお前が読んだからだ。その瞬間に、お前の中で生まれた認識を世界と表すなら、今のこれがそうだ。 そしてお前は、刺激も無く目的も無く、現実と空想との境界が曖昧な状態で、お前の中で事実と認識したこの世界に迷い込んだ。 事件史の登場人物達は、お前がこれらの事件を認識したことで、お前の世界の中でその苦しみを味わうこととなった。これは、その登場人物達の復讐ともいえるかもしれない。 今、飛行機に乗っている≪これ≫は、お前にとっては既に現実だ』 僕は、混乱した。 海清さん、ユリカちゃん、Χくん、FMSくん、ペケ蔵さん、穴山さん、満月さん、そして……キリコとネズの2人……。 愛する人の一部を愛した女…… 首を奪われた少女…… 27人を襲った少年…… 届かなかった飛行機…… 雪の中……イデオロギー…… 毒を飲まされた行員…… 永田町のホテル火災…… ジェット機、大阪行き、お盆……うだるように暑い夏…… ああ、僕は、とんでもないものに迷い込んだ。僕の幼稚な好奇心が彼らを生み出してしまった。彼らの苦しみも考えずに。空虚な毎日で、ほんの些細な刺激を求めて。 このままではいけない。この飛行機がこの後どうなるか、僕は先ほど『認識』したではないか。 「降ろしてください!」 僕はシートベルトを外して立ち上がった。周りの人達が何事かと僕を見る。 「……ノヴシゲ?」 「何をしてるのノヴシゲッ…。恥ずかしいからやめてよ…」 キリコが恥ずかしそうに僕の服を引っ張った。 「降ろしてください! 今すぐ羽田に戻ってください!」 「ねえ、ほんとに、やめてよ。落ち着いてってば!」 「ノヴシゲ、立ち上がるのは危険だぞ。とりあえず座……おい!」 僕はネズの抑止を振り切った。 通路に出て、コクピットに入ろうと先頭を向いたところで、 僕の背後でパーンと、高く弾けるような音がした。 ああ、願わくば、安らかであれと 僕はキリコとネズの手を取って、泣いた。