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束縛スル島

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「怪奇!空を飛ぶパンツ!脱衣所に秘められた罠!」後編





「怪奇!空を飛ぶパンツ!脱衣所に秘められた罠!」後編






「満月さん……?」

 黒幕のようにして現れた満月さんに僕らが気を取られていると、FMSくんのパンツはその満月さん達の間を抜けるようにして向こうに去ってしまった。

「あっ……」

 FMSくんが立ち上がって追いかけようとするのを、満月さんは手でたしなめるしぐさをした。

「あれを捕まえるのは至難の業です。まずはわたくしの話を聞いて頂けますか? 皆様、広間の方へ」

 僕らは言いたいこともそれぞれにあったが、それを飲み込んでしぶしぶ満月さんの誘導に従い広間へ集まった。 


 一番先に広間に入った僕はいつも通り胡坐をかこうとして体を止めた。ノーパン状態+この浴衣で胡坐をかいてしまったら肌蹴て中身が見えてしまう!
 隣に座ろうとしたFMSくんもそれに気付いたのか、ぎこちなく正座した。他の人達も正座になる。ううっ……早く服を取り返したい。


「皆様がご覧になった現象の原因は……、ズバリ、この屋敷にとり憑いた地縛霊です」


 満月さんがとんでもないことを言い出した。ホラーと銘打っているこのシリーズだが、これまでに黒幕や敵対した勢力は、宇宙人だったりゾンビだったり人間だったり僕自身だったりして、幽霊が犯人という話は初めてかもしれない。
 これが男性陣の服が全部無くなっただけではとても信じられない話だったが、僕らは先ほどパンツが空を飛ぶという超常現象を目にしている。満月さんの言葉にも真実味があった。

「その……、地縛霊というのは、男性の霊ですか? それとも、女性の霊ですか?
 なんというか……、こんな悪戯のようなことをする霊がどういう方なのか知りたいんです。
 正直なところ、そういった類のものを信じているわけではないのですが……」

 姿勢良く正座しているペケ蔵さんがおずおずと満月さんに尋ねた。満月さんもこれまた姿勢が良く、育ちの良さを自然と感じさせる。

「男性です。……彼は、十数年前にこの建物で死亡した修行僧です」

 一同ざわめいた。
 男性なのはなんとなく感じていたが、仏門に入った人間が……あ、もう幽霊だったか……とにかく僧侶が、このようなことをしでかすなんてひどく不可解だ。
 しかし、僕は僧と聞いて、南北朝時代に書かれたという『稚児物語』を思い出してしまった。要するに女色を禁じられた僧侶達と若い稚児とのアッー!な本らしい。現代では決してそんなことは無いだろうが、昔は割と普通に寺院でそのようなことが行われていて、天台宗なんかには『稚児灌頂(ちごかんじょう』という少年をアッー!する神聖な儀式もあったらしい。
 まさか、そのような趣味を持つ僧の幽霊が、男の汗臭い服を盗んでいった……?

「あの……それは、つまり、その方はノヴシゲ達の服に興味があったということですか……?」

 僕よりも博識なキリコも同じようなことを想像したらしく、若干恥ずかしそうな顔をしてそう言った。


「ああ……、いえ、彼の目的は衣服ではありません。
 皆さんを、男性の方々を、丸裸にすることです」


 もっとタチ悪いじゃねーか!!


 ぶわっと冷汗が出てきた。
 同じような気持ちなのか、男性陣はみんな神妙な面持ちになった。万が一霊に襲われたら一体どうやって抵抗すればいいんだろうか……?
 僕らの表情に気付いたのか、満月さんが手袋をはめた手をブンブンと振って否定した。

「おっと、早とちりはしないで下さいね。彼はそのような趣味をお持ちの霊ではありません。
 彼は、この屋敷の中にいる男性を丸裸にして……女性の目に晒すことを楽しんでいるのです」

「は……?」

 それはそれですごく嫌だ。一体どういうことなのだろうか。

 満月さんはゆっくりと語り出した。

「この屋敷がかつて旅館として使われていた頃、この山の山頂にある寺院を訪れる僧や観光客が毎日のように宿泊しておりました。
 露天風呂こそありませんが、天然温泉の湧き出るこの宿は、登山の疲れを癒す場所として人気でした。

 しかし、悲劇は起きました。『彼』が浴室へと足を踏み入れた時、前の利用者が忘れて残していった石鹸ケースを踏み、後ろ向きに激しく転倒してしまったのです。

 更に悲劇は続きます。

 後頭部を強打して意識が朦朧とする中、当時時間ごとに男女入れ替え制だった浴室に、部活の合宿に利用していたテニス部のJK集団が入ってきて、全裸で横たわる彼を発見したのです!

 彼が死にかけていることに気付かないJK集団は、
「ギャー! ヘンタイ!」
「ハゲが下から覗こうとしてる!」
「サイテー! 目ぇひんむいてキモッ! 死ねよ!」
と大騒ぎしました。

 彼は薄れ行く最期の意識の中で、全裸で動けなくなっている自分がヘンタイ呼ばわりされているのを聞いたのです。もちろんその後、JK達も彼が瀕死であることに気付き救護を求めに行ったのですが、彼が死んだのはその直前でしたのでそんな様子を見ることはありませんでした。

 おお、ブッダ! なんたる屈辱か! 

 力尽きた彼の中には、仏の道に入っても拭いきれなかった妄執が、怒りが宿ったのです。

 その怨念はやがて仏教の教える輪廻転生の道を外れ、地縛霊となってこの屋敷にとり憑き……その後、宿泊する男性客の衣服が突然消え、女性客の前で裸を晒してしまうという事件が頻発するようになりました。

 彼は、男性客を自分と同じような目に遭わせ、生前の恨みを晴らすようになったのです。

 お陰でこの宿の評判も落ち、いつしか客は途絶え……火事で山頂の寺が消失するより先に、わたくしどもは経営を断念せざるを得ない状態となったのです」

「はあ……」

 そんな事情が……。
 しかし、経営者側には迷惑な話だろう。

「この屋敷に私やきく香が住むようになってからは、そのような現象はありませんでした。
 女性しかいないからでしょうか。私どももすっかり彼の存在を失念しておりました。
 久しぶりの男女混合のお客様とあって、きっとあのお方も奮い立ったのでしょうね」

 まつ香さんが申し訳なさそうに言った。その膝の上をきくちゃんが落ち着かない様子で上がったり、枕にして寝そべったりして、大人の会話に暇をもてあましている。

「原因はわかった。
 で、問題はどうすれば俺達の服を取り返せるかだ。これまではどうしてたんだ?」
 一磋さんが腕を組んだまま言った。
「そうっすよ! オレのパンツ、返してもらいたいんすけど!!」
「申し訳ございませんが、過去に衣服を取り返せた例はございません。
 ですが、彼は地縛霊……。一度この屋敷を出てしまえば彼の力も及ばず、衣服を身にまとおうとも消えることはございません。
 過去の男性客には、丁重にお詫びして衣服代を差し上げてご帰宅願いました」
「衣服代? いくらくれるんすか?」
「それはもう、おっしゃる額を……」
「……んー」
 FMSくんは納得しかかっているようだ。しかし、まだ問題はある。  

「以前はすぐ傍に衣料品店もございましたので、表にさえ出れば服を買うのには困らなかったのです。
 しかし、その衣料品店もこのような辺鄙な場所ですのでその後潰れてしまい……今は、麓へ降りるしか代用品を見つける手はございませんね。
 どなたかに買いに行って頂かなくては……」

 そうなのだ。持ってきた服は一旦諦めるとしても、誰かが新しい服を買ってきてくれないと僕らは家に帰れない。まさかノーパン浴衣姿で町を歩くわけにもいかないし。

 そうなると、誰が買い物の役目を引き受けてくれるかだ。男性が無理なら、女性しかない。

 僕は女性陣に目を向けた。
 キリコとユリカちゃんが、男性用下着を恥ずかしげもなく買えるとは思えない。そうなってくると、その辺をあまり気にしない雰囲気で、身軽なバイクで来た海清さんにスポットが当たる。

 僕は海清さんをじっと見た。海清さんは僕の視線に気付くと艶やかに笑って返してくれた。

「私? いいわよ。
 ……その代わり、下着も服も、私の趣味で買うわよ。ちゃんと着て見せてくれるわね?」
 ああ、一体どんなものを着せられるんだろうか……。僕は不覚にもときめいた。

 僕がポーッと胸を高鳴らせているのを見てか、キリコがテーブルをドンと叩いた。
「待ってください! こんな事態になったのは、この屋敷の管理者である満月さんに過失があるんじゃないですか?
 もちろん、そんな霊に憑かれてしまったことは同情しますけど……。わたし達をここへ誘ったのは満月さんなんですから、満月さんが責任をお取りになって服を買いに行かれればいいと思います!」

 キリコめ、余計なことを……。

 しかし、言われてみればその通りだった。

「そうですね。そうして頂くのが道理かと思います。
 そもそも、どうして満月さんの服は無くならないんですか? あなたも男性……、ですよね?」

 ペケ蔵さんが自信なさげに言ったのもわかる。僕らは満月さんの素顔も体も見たことがないからだ。もしかして女性だったりとかそんなこともアリエール……?

 しかしそこで、おもむろにネズが呟いた。


「……。……おかしいな。どうして、満月さんはその僧が死んだ時の感情を事細かに話せるんだ……?
 そんなこと、死んだ本人にしかわかるはずがない……」


 ネズの言葉に、空気が凍りついた。

 そうだ……。全くその通りだ。事故の流れや起きる現象のことはわかっても、その引き金となった感情までわかるはずがない。
 『裸体でいたのを罵られて屈辱だった』なんて、本人の口からしか語られるものではない。

 満月さんは……一体……?




『フフフ……ファファファファ!!』




 僕らが問い詰めると、満月さんは急に高笑いを始めた。

 そして突如、傍にいたΧくんの浴衣に手をかけ、一気に引きずり下ろして彼の上半身をさらけ出した。


「うっ……わああああ!」


 まさか突然そんな暴挙に出られるとは思っていなかったであろうΧくんは、慌てて浴衣を掴んで最後の牙城を守る。

「……くっそぉっ! やめろよっ、クソムシ野郎!!」

 Χくんが半泣きで足蹴にして抵抗する。ヘソの位置まで下ろされた浴衣が今にも引きちぎられそうになっていた。

「このヤロウ!」

 一磋さんが満月さんに殴りかかろうとした。


「……!?」


 しかし、不思議な力で一磋さんははじき返された……! そのまま襖に背中を叩きつけられる。


『ファファファ! 無駄だ! 我の名は宗膳。無念を抱き現世(うつしよ)を彷徨う怨霊よ!』


 なんと、満月さんに霊がとり憑いていたのか!

 満月さんのサングラスの奥で目が光っているのがよくわかる。背筋をゾッとさせる光だ。
 見ず知らずの人の前でならともかく、キリコ達の前で全裸にされるなんて、そんな恐ろしいことがあってたまるか……!!


 ビリリッ!!


 嫌な音がした。

「あああああぁぁ……!」

 Χくんの浴衣が一部分を残して破れ、満月さんの手の中に収まった。Χくんはほぼ全身を僕らの前にさらけ出すことになったが、幸いにもその残った一部分で大事な部分は隠すことが出来た。

『幸運な奴よ。我の手から逃れるとは』
「クソが……!クソが……!」

 屈辱を受けたΧくんはふるふると震え、顔を真っ赤にしたままものすごい形相で満月さんを強く睨んだ。
 僕はそんな可愛いΧくんの姿を見て若干何かに目覚めそうになったが、次の標的が一磋さんになり、その胸毛がさらけ出された瞬間に我に返った。

 不思議なことに、手を触れてもいないのに帯から上の浴衣が満月さんの方向に引っ張られている。

「うわっ……! 駄目だ、力じゃどうにもならねえ! 姉貴、なんとかしてくれ……!」

 謎の力に抵抗して浴衣を抑える一磋さん。海清さんに助けを求めるが、海清さんは腕を組んで仁王立ちしたままだった。

「何よ、男らしくないわね。裸ぐらいいいじゃないの。減るもんじゃないし。
 いいからさっさと脱ぎなさいよ」

 ……!?

 僕は耳を疑った。

 が、次の瞬間、海清さんの前でなら脱いでもいいような気がしてきた。
 僕の貧相な体を罵られたとしてもそれはそれで……、ご、ご褒美になるんじゃなイカ……!?

「ね? キリコちゃんもユリカちゃんもそう思うでしょ?」
 海清さんは2人に同意を求めた。

 ユリカちゃんは眉をハの字にして困ったような表情を浮かべた。

「うーん……。見たいような、見たくないような。
 でも見えたからってどうってことないですよ?
 だからもし脱げちゃってもだいじょぶです!」

 キリコは顔を赤くしながらも強気な口調で返した。

「別に……ノヴシゲ達の裸を見るくらい……! わたし達が見ればそれでこの怪現象が終わるんでしょう!?」

 そうか……女子というのは意外とこういうところは図太いのだ。高校時代、エグい特集の載ったan・anを女子がキャーキャー言いながら回し読みしていた様子を見たじゃないか。女性向けのアダルトコンテンツも多くある時代だ。今更裸程度では騒がないのかもしれない……。

 しかしそう思うとみすみす裸にはなりたくはないような気がしてきた。僕らの大事な裸体はこんなところで簡単に晒すべきものではないのだ。
 こんな状況で見られたところで、大事な何かを失ってしまいそうな気がしてくる。こんなくだらない状況で見せるんじゃなくて、もっとムードのあるところで、しかるべき状況で……と思うのは夢の見過ぎだろうか。

 僕は無駄かもしれないとは思いながら、一磋さんの浴衣を掴んで引き上げるのを手伝ってあげた。

「ノヴシゲくん……!」
「一磋さん、もう少し頑張って下さい!」

「僕も手伝うよ、一磋くん!」
「……俺も」

 ペケ蔵さんやネズも一緒になって一磋さんの浴衣を押えてくれた。

 満月さんの力は一人ずつにしか効かないらしく、一磋さん以外の人達に異変は起きていない。
 つまり一磋さんが脱がされなければ僕らに危険が及ぶことはない。

 必死になって力を込める。浴衣が破れたとしても、Χくんのように大事な部分だけでも手元に残ればこっちのものだ。


「イヤですぞー! イヤですぞー! 脱がされるのはイヤですぞー!」


 しかし、穴山さんが顔を赤らめながら部屋の隅でヴィーナス誕生よろしく体を押えているのを見てしまい、僕の集中力は乱された。

「ああっ……! ギャランドゥが……!!」

 僕が気を抜いた瞬間、浴衣は一気に引き摺り下ろされた。一磋さんの黒々とした立派なギャランドゥが僕らの眼前に現れる。もう少しで全部持っていかれるところだった。

「くっそ……あぶねえっ……!」

 僕らは渾身の力を込めて浴衣を引いた。しかし僕の握力は既に限界だった。


『無駄な抵抗はやめるのだな。我の手から逃れた者はいない。
 ……!?』

 もう駄目だ、一磋さんのイチモツが……!!


 と思った瞬間、満月さんをまばゆい光が襲い、彼を包んでいた黒いオーラが吹き飛んだ!
 一磋さんの浴衣を引っ張る力が抜ける。
 た、助かった……!?


 満月さんはキョロキョロと部屋を見回した。

『誰だ……! こんな力を使う者がいたとは……!』


 僕らも何が起きたのかわからず、呆気に取られたまま光の放たれた方向に目をやった。



「……加此出波(かくいでは) 天津宮事以鼎氐(あまつみやごともちて)
 大中臣天津金木乎本打切末打断氐(おおなかとみあまつかなぎをもとうちきりすえうちたちて)
 千座置座尓置足波志氐(ちくらのおきくらにおきたらはして)
 天津菅曾乎本刈断末刈切氐(あまつすがそをもとかりたちすえかりきりて)
 八針尓取辟氐(やはりにとりさきて)
 天津祝詞乃太祝詞事乎宣禮(あまつのりとのふとのりとごとをのれ)……」



 ……な、なんとFMSくんが漢字をしゃべってる……!?


 じ、じゃなくて、二本指を口元に近づけてなにやら呪文めいた言葉をブツブツを唱えている!

 そのFMSくんの周りを、あのまばゆい光が包んでいるではないか!


「FMSくん……力を使ったのか……」

 ペケ蔵さんがボソッと呟いた。

「力って……!?」

 僕はすかさず聞き返した。

「彼はああ見えて一応、伝統ある神社の跡取り息子だからね……。音楽活動なんてしてるのも、駄目だった場合の保険があるからなんだよね。
 子供の頃からオカルトが好きで、家の敷地内で陰陽師の真似事みたいなことしてたら、厄払い程度のことは出来るようになったみたいだよ。」

 そうだったのか。まさか、FMSくんがそんな生い立ちで、そんな能力を持っていたなんて……。

 地縛霊に、陰陽師……。
 もはや、パンツが宙に浮くくらい大したことではないように思えてきた。
「でも、ちょっと待ってください。相手は僧ですよ? 仏教に神道の力が効くんですか?」
「うーん……日本は元々神仏混交だし、ホトケも八百万の神の一つということでいいんじゃないかなあ」
 ペケ蔵さんが『ホトケ』なんて言うとまるで死亡した被害者のようだ。

 それはともかくとして……。僕は再びFMSくん達に向き直った。

 FMSくんの体から放たれる光が満月さんのオーラを吹き飛ばすが、満月さんの体からは湯水のように次から次へと黒いオーラが湧いて出てくる。


『ファファファ! 小僧が、頑張るじゃないか!』

 バリバリバリッ グァ!!

 今度はFMSくんの浴衣が引っ張られる。
 だが浴衣は見えない誰かが押えているかのようにFMSくんの体を包んだまま、裾を翻すだけだ。
 FMSくんはこめかみに汗を浮かべたまま動こうとせず、口元にニヤリと笑みを浮かべた。


「大祓詞(おおはらえのことば)じゃ完全に祓うのは無理っすか……。
 こうなったら、最近使えるようになった式神を使うしかないっすかね……」


 おお、式神! 安倍晴明みたいでカッコイイ!
 僕が期待を高めると、FMSくんは懐から人型の紙を取り出した。
 すげー! ワクワクする!!


「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる……」


 FMSくんが再びブツブツを何かを言い出し、指で人型に何か書き込んだ。
 不思議なことに、ペンも筆も持っていないはずなのに、FMSくんの指先が人型に触れるとそこに線が浮き出てくる。
 なんかすげー! かっけえ! もうそれしか言えない!

「老子の言葉ね。陰陽道は道教の影響も受けているから……」

 キリコが言った。だが僕には何のことを言ってるのかサッパリだった。

「え……道教?」
「中国三大宗教の一つだよ」
「2とか3とかどういうこと?」
「式神とは、式……つまり数学なのよ、きっと。
 ピタゴラスは『万物の根源は数である』と言ったわ。自然現象には数学的な法則が内在しているってね。
 万物を構成する式に特定の条件を与えれば特定の結果が出る。すなわち条件を変えれば万物を操れるということね」

 ……わかったようなわからないような。


「はあああぁぁっ!!」

 一通りなんらかの呪文を唱え終え、人型を挟んだ二本指を口元に近づけたFMSくんが、そのまま人型を投げつけた。

 が、しかし、

『弱い弱い!!』

 人型は力無く満月さんの目の前でヘナヘナと床に落ちていった。
 そして人型はヨロヨロと数歩だけ床を歩いたかと思うと、「きゅ~…」と言いながら力尽きたように倒れ込んだ。

 傍にいたネズがそれを拾って書かれた文字を読み上げる。


「……。……『12+30=42』……?」


「数学じゃなくて算数じゃんそれ!!」

 僕は盛大にガッカリした。


 ガッカリした、というか、呆れた様子でみんながFMSくんを見る。FMSくんは唇を尖らせた。

「な、なんすか! 足し算と引き算でもいちおー式神は動いたじゃないっすか!」
「あのさあ……、高校までは出てるんだからさ、せめて中学レベルの方程式くらい……」
「自慢じゃないっすけど、オレ数学は万年1っすから! たまに2があったけど、高校卒業したら全部頭ん中から吹っ飛びました!」
「それでよく式神なんて使おうと思ったなオイ!」

 僕らがコントのようにやり取りしていると、満月さんは両手を掲げた。


『ファファファ……! へなちょこ陰陽師め、もうここまでだな……!!』


 部屋の中を嵐のような強風が襲い、FMSくんの浴衣を吸い取ろうとした。
「うわっ……やっべ……っ!!」
「あ、危ない!!」
 慌てて浴衣を手で押えるFMSくん。僕はそんなFMSくんを助けようと手を伸ばした。

 が、

 僕の伸ばした手はあろうことかFMSくんを突き飛ばす形となってしまった。
 強風と僕の力に煽られたFMSくんは、おっとっと……とバランスを崩して満月さんに向かって倒れ込んだ。

 その時だった。



 ぽみゅっ☆



「……!!? ~~~~~っ……!!」





 ああ、なんたること……なんたること……。


 僕は目の前で起きたことを現実として受け止められなかった。



 FMSくんは倒れ込んだ満月さんの上に覆いかぶさっており、その唇がマスク越しに満月さんの唇を奪っていた!

 まるでコトを始める前の恋人同士のような優しいキッス……。

「ンんんん……!!」

 マスク越しではあるが、そんな体勢になっていることに気付いたFMSくんと満月さんは、苦々しい表情を浮かべた。


 その時、




『ウボアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』




 満月さんの体からタコがスミを吐き出したかのようにぶわっと黒い煙が広がった。不意打ちのようなそれを思わず吸い込んでしまった僕らは、たまらずにゲホゲホと咳をする。
 先ほどまで吹き荒れていた風は止み、煙が部屋に充満した。

 何が起こったんだ?

 もしかして、例の霊が満月さんの体から出ていった……?


「皆様、大丈夫でしょうか!?」

 やがて気を利かせたまつ香さんが襖を開けて換気を良くしてくれた。部屋を覆っていた黒い煙は、風の流れと共にゆっくりと部屋から出て行った。

 視界が良くなると、倒れたままの満月さんとその隣で四つん這いになりながら茫然としているFMSくんが目に入る。

「若様!」

 まつ香さんが心配そうに倒れ込んだままの満月さんを助け起こそうとする。満月さんのマスクの口の部分は唾液でしっとりと濡れていた……。

 FMSくんはと言えばわなわなと震えながら顔を青くしている……。心中お察し致す。


「う、ううん……。
 ……はっ! まつ香さん!
 わたくしは一体……?
 ……い、今の柔らかな唇は、ま、まつ香さんでしょうか……?」

 目を覚ましたらしい満月さんが若干照れながらそう聞いた。まつ香さんは言葉を詰まらせた。

「ええと……それは……。
 と、ともかく若様がご無事で何よりです!
 もうどこも悪くはございませんか?」

「ええ……わたくしは大丈夫です」

 FMSくんは大丈夫じゃなさそうだけどな。


「しかし、一体何が起きたんだ……? どうして、いきなりアイツが体から出て行ったんだ?
 FMSくん、何か術でも使ったのか?」

 一磋さんの問いかけに、FMSくんはぶんぶんと首を振った。

「じょーだんじゃないっすよ! あんな苦しくてキモいの、術なわけないじゃないっすか!!」

「苦しい……? あっ……そうか!」

 キリコが何かを悟ったようだった。



「苦しいFMSくん × 苦しい満月さん……9(苦)×9(苦)=81だね!」


 なんなんだその思考は!


「FMSくんの意図せずして、式が発動したんだよ、たぶん!」

 キリコはちょっと興奮気味に言った。それが、ロジックを発見したことからなのか、FMS×満月という空恐ろしいカップリングを目の前で見たことからなのかがわからなかった……。

「いや、それさすがに無理があるでしょ……」

「言霊の国である日本なら、苦しいの『く』が『9』に結びつくことなんて普通でしょ? 人物×人物という数式も、いまや色んなところで見かけるものじゃない」

「いやでもさ……9×9=81だって小学生レベルじゃないか……。なんでこんなに効力を持つんだよ……」

「ノヴシゲ知らないの? 九九は神聖な数字なの。陰陽思想では奇数は陽の数で、9は一桁のうちその最大でしょ。9月9日を重陽の節句と呼んでお祝いするのは、陽の重なりが吉祥と考えられたからだよ。
 万葉仮名では『に[くく]あらなくに』を『二[八十一]不在国』と書いたりなんかして数で遊んだりもしたの。
 イザナギとイザナミが産んだ神の数も九九=八十一柱。FMSくんが操れる数式としてはなかなか強力だったのかもしれないよ」

 ……わかったようなわからないような(※72段目ぶり2回目)。



 とにかく、偶然にも発動された術により、僕達は女の子達の前で全裸を晒すという危機から逃れることが出来たようだ。Χくんはほとんど晒してしまったが……、まあ、彼なら許される範囲だろう。本人さえ立ち直れば。

「あっ……そういえばパンツ……!!」
 FMSくんが思い出したように言った。
「そうだ。消えた俺達の着替えはどこに行ったんだ……?」
 一磋さんも乱れた浴衣を調えて辺りを見回す。一見してそれらしいものがあるようにも見えない。消えたことの逆に、空中からパッと現れることもない。

「お、オレのパンツ……」

 FMSくんがしょぼんとした。その矢先だった。


「あー、なにやら体が重いですねえ」


 元気を取り戻した満月さんが立ち上がると、そのコートの下からバサバサバサッと大量の衣類が落ちてきた。まるで四次元ポケットから取り出したかのような量だ。

「ああー!! パンツ! オレのパンツ!!」

「おっと、なんですかねえ、これは……」

 それらは見まごう事なき、僕らの無くした衣服の山だった。FMSくんは嬉しそうに黒いパンツを手に取った。

「まあ……とりあえずは良かったね、FMSくん。4000円が無駄にならなくて。君の力も役に立ったし」
「良かったんすかね……コレ」
 ペケ蔵さんがFMSくんの肩に手を置くと、FMSくんは先ほどの満月さんの唇の感触を思い出したのか再びドヨーンと落ち込んだ。

「一磋もケチね。体くらいみんなに見せてあげればよかったのに」
「自分で見せるのと無理矢理晒されるのは違うだろ……」

 双子はいつもの雰囲気になっているし、

「うへへ……たるんだ体を見せずに済んでよかったですよ」

 穴山さんはほっとした顔をしている……が、穴山さんの体がたるんでいることは服を脱がずともわかるのである。

「ボクはこの屈辱の日を一生忘れない……!」

 ……Χくんにはあまり近づかんでおこう。

「……。……ノヴシゲ、怪我は無かったか?」

 ネズはいつものように必要以上に僕を心配してくれた。

「どーなっちゃうかと思いましたけど、これにて一見落着ってことですね★」

 ユリカちゃんがニコニコして言った。


 うん、まあ、そうなんだけど……。
 なんとなく釈然としない。


 僕は横目でキリコを見た。

 FMSくんと満月さんを見て即座に×を思い浮かべた思考……もしかして?
 いや、今までそんなそぶりは見せなかった……。きっと僕の勘違いだ……。

 それと、満月さんのあのコートの中はどうなっているのだろう。僕らの衣類の量はとてもじゃないが物理的にあのコートの中に収まるような量じゃない。
 これまでもずっとあの中にあったというのか?
 あの中はどうなっているんだ?
 そして、何故他のみんなはそれを疑問に思わないんだ……?

「皆様、とりあえず悪霊は去ったことですし、お夕食まではまだ時間がかかりますので、もう少々お待ち下さいね」

 まつ香さんがそう言うと、僕が困惑しているのをよそに他の人達は自分の服を手に部屋に戻っていく。
「じゃあノヴシゲ、後でね!」
 キリコがユリカちゃんと共に部屋を出ていくと、傍にはネズだけが残った。

「ノヴシゲ、戻るぞ」
  
 ネズに声を掛けられ、仕方なく僕も床に落ちた服を取った。
 だが、そこには僕のパンツだけが無かった。

「僕のパンツだけ無いぞ……」
「……。……満月さんがまだもってるんじゃないか? 聞いてみたらどうだ?」

 そうかも。それなら、ついでにあのコートの中のことも聞けるかもしれない。
 

 僕らが廊下に出ると、そこにはちょうど満月さんときくちゃんがいた。

「満月さん」
「あ、はい?」
「あの……、コートを脱いでみせてもらえませんか?
 僕のパンツが見当たらないんです。もしかしたら、引っかかって残ってるかもしれないし……」

 僕はおそるおそる満月さんに言ってみた。紫外線に弱いから着ているというあのコート……。そういえば室内なのに脱いでいるところを一度も見たことが無い。明らかに不自然だ。

 満月さんは「おっと、そうですね……」と言ってコートの上から体をまさぐるようなしぐさをした。

「ん~……ありますかねえ……」

 そしてひとしきり考え込むと、僕ではなく傍らにいたきくちゃんに声を掛けた。


「きく香ちゃん、わたくしの代わりに、『中』を見てきてくださいますか?」


 満月さんが言うと、きくちゃんは素直に「はーい!」と、満月さんのコートの裾から中に入って行った……!
 きくちゃんが入ればコートは膨れそうなものなのに、外見は一切の変化がない。先ほどの大量の服のように、その体積を感じさせない。
 『中』は一体どうなって……!?





 ……グジャッ!
 バキッ! ギョエエエ! ビチャッ!!






 しばらくすると、きくちゃんが入って行った満月さんのコートから、なにやら不穏な音が聞こえてくる……。
 僕は竦んだ足でやっと立ってその光景を目にしていた。ネズも困惑の色を隠せないでいる。



「あったよー! おにいちゃんのパンツ!」



 やがてきくちゃんが満月さんの足元から出てくると、その手には深緑色のドロッとした液体にまみれた僕のパンツがあった。


「おやおや、随分と暴れたんですねえ」
「すっごいねえ、かわいいのがいたの! なでなでしたんだよ!」


 満月さんときくちゃんはそうして顔を見合わせると、にやあ~っと笑ったのだった。


 僕らは緑に染まったパンツを手渡されて、そのまま何も言えなかった……。









              END

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「怪奇!空を飛ぶパンツ!脱衣所に秘められた罠!」前編





「怪奇!空を飛ぶパンツ!脱衣所に秘められた罠!」前編







「あ~、いいお湯だった」


 浴室のガラス戸を開けると、浴室内より幾分湿度の低い爽やかな空気が肌を冷やした。夏場とはいえ山中であるので気温はそれほど高くなく、陽光さえ遮ればエアコンなしでも快適に過ごせる。

「……。……すごかったな、一磋さんの……」
「そうだな……」

 ネズも衝撃を受けたようだった。興奮で頬が赤く染まったままだ。着替えの入った籠に向かいながら僕は薄手のフェイスタオルで更に体に付いた水滴を拭った。
 あんな風になるんだろうか……。人体とはまったく不思議だ。

「縮れ毛ばかりのすね下の一部分だけが綺麗な直毛だなんて……。
 しかもキューティクルの整ったツヤツヤな毛だった。僕は全体的に直毛だけど、あの光沢には勝てないな……」
「さすが美容師だな……。体毛の手入れもしっかりしてる……」

 あ、そうか、美容師さんなんだっけ。
 ちょっと隙を見せるとハーレーの話を振ってくるから一磋さんの職業のことなんてすっかり忘れてたよ。
 僕は着替えの籠にかぶせてきた大きなバスタオルを取った。

「あ……あれ!? な、無い!!」

「……。……どうした、ノヴシゲ?」

「き、着替えが無い!! 着てきた服も、全部無いぞ!?」

 バスタオルの下は、虚の空間となっていた。

「……籠を間違えたんじゃないのか?」
「でも、このドラえもんのバスタオルは間違いなく僕のだぞ?」
「後から入ってきた誰かが入れ変えたとか……」
「そんなことして何になるんだよ!」
 ネズは籠の中から自分のバスタオルを取った。そして……
「……? 俺のものも無いぞ……」
「ええっ!?」
 眉一つ動かさず何も無い籠の中を見つめる。
「……どういうことなんだ? このままじゃ表に出られないな」
「もしかしたら、FMSくんあたりの悪戯じゃないのかな……。他の籠の中も見てみよう」
 僕は手当たり次第、籠の中身を覗いてみた。しかし、どの籠という籠にも入っているのはバスタオルかせいぜい眼鏡くらいのもので、僕が悪戯をしたんじゃないかと睨んだFMSくんのものも含め、今浴室内にいる人達の着替えらしきものは一切見当たらなかった。

「ど、どういうことなんだ……? 全員分の服が無くなってる……」

 僕達が全裸のままうろたえていると、湯上りで体を紅潮させたΧくんがガラス戸を開けて脱衣所に入ってきた。

「……? どうしたんですか、2人とも……」
「……着替えが無いんだ……」
「は? 忘れたんですか?」
「そうじゃない。みんなの分も無いんだよ」
「はァ? なんで……」

 Χくんは自分の籠の中を確認し、そのまま隣に置いてあった籠の中も見る。そして可愛らしい唇を歪めてチッと舌打ちした。
「……FMSさんの仕業じゃないんですか? 最後に入ってきたのあの人だし」
 やっぱそう考えるよな。

 僕はとりあえず本人に聞いてみようと、浴室のガラス戸を開けた。
 と、ちょうど浴室を出ようとしていたペケ蔵さんの鎖骨が目に飛び込んできた。

「あれ? どうしたんだい? 忘れ物?」

 僕はペケ蔵さんの問いかけには返事をせず、地獄谷のサルが如くヘブン状態で首まで湯船に浸かっているFMSくんに声を掛けた。
「FMSくん! みんなの服を隠したりしてないよな!?」
「……へっ!?」
 気持ち良さそうに目を瞑っていたところを急に声を掛けられたFMSくんは驚いて胸まで体を引き上げた。
「なんのことっすか!? 服って?」

 ……本当に知らなそうだ。

「一磋さんや、穴山さんは……?」
 僕は中に残っていた他の2人にも声をかけたが、2人とも事態がわかっていないような顔をしていた。
「どういうことなんだ……」

 僕は再びネズ達のところに戻った。ネズ達は脱衣所内をくまなく探してくれていたようだが、収穫は無かったようだ。

「盗難事件ですよ! 盗難!」

 僕はペケ蔵さんに言ったが、ペケ蔵さんは腕を組んで首を傾げた。
「うーん……、でも男の服を……それも下着まで盗んで誰が得をするのかなあ。昼間動いたから汗臭くなってるし、……ここには男性陣のほとんどがいるわけだけど、女性の誰かがこんなことするとは考えにくいし……。
 満月さん……? が、何かの為に持って行ったとしても、僕らにはきちんと声をかけてくれそうだし……」
「でも実際問題として僕ら、服を着ないことには表には出られませんよね。いつまでもブラブラしているわけにはいかないでしょう?」

 そうこうしてる間に、浴室内にいた3人も脱衣所まで出てきた。脱衣所内は裸の男達で溢れ、いつも以上にむさ苦しい光景となっていた。念のため言っておくがみんなタオルで下は隠している。

「とりあえず各々の部屋に他の着替えはあるわけだ。だったら、取りに行けばいいだけの話じゃないのか?」
 一磋さんがそう言った。
「でも、途中で女性陣と出くわしたら気まずいですよね……。いくら下を隠していたとしても。
 これだけの人数が一度に行動したら、絶対に誰かは遭遇しちゃうと思うんですけど」
「じゃあ、代表して誰かに取りに行かせればいい」

 一磋さんの言葉を聞いて、一同の目がFMSくんとΧくんの2人に注がれた。

「な、なんなんすか! オレは嫌っすよ!」
「……なんでボクらなんですか?」

 これにはペケ蔵さんが答えた。
「Χくんならタオル一枚でうろついていたところを女性と遭遇しても許してもらえそうだし、FMSくんは普段からこういうことやらかしてそうだから笑い話で済むんじゃないかと思うんだ」
「オレなら笑われてもいいってことっすか!? だったら穴山さんこそ適任じゃないっすか! 普段から風呂上りにパンツ一丁で歩いてそうだし!!」
「うへへ……バレましたかな?」

 僕らがもめていると、ふと、廊下から幼い歌声が聞こえてきた。この声はきっと、きくちゃんだ!
 僕はチャンスとばかりにみんなに提案した。

「きくちゃんに、何か羽織る物を持ってきてもらうようにまつ香さんに伝えてもらうのはどうですか? 元々旅館だったんならもしかしたら浴衣くらいはあるかもしれませんよね?」
「ナイスだ、ノヴシゲ……! それでこそ俺の」
 ネズの言葉を遮って僕はΧくんの肩に手を置いた。
「Χくん! 僕らがこの格好できくちゃんの前に出るのは……なんというか、事案が発生してまずい気がする。
 だが中性的で可愛い君ならきっと大丈夫だ! きくちゃんに、この危機を伝えてくれ!」
 Χくんはわかりやすく嫌な顔をした。が、少し考えるような素振りを見せると、僕の期待する答えを返してくれた。

「ボクだって一応男なんですけど。
 ……まあ、確かにボクならヘンタイには見えないでしょうから、ここは仕方ないですかね……」

 Χくんは腰のタオルをしっかりと結びなおして廊下に出て行った。その華奢な背中が僕らには非常に頼もしく見えた。

 Χくんの様子を、そっと開けた扉の隙間から伺う。

 Χくんを見つけて、きくちゃんの足が止まった。しかし、すぐにはΧくんの口から言葉が出てこない。子供と接するのは苦手そうだから、言葉を選んでいるのかもしれない。

「あのさ、頼みがあるんだけど……。お母さんにさ、7人分の浴衣か何かを……」

 しかし、Χくんがそう言っている途中で、きくちゃんはニヤリと笑いを浮かべてΧくんの腰のタオルを思い切りつかんで取り去った!!


「うわあああああああああああああ!!」


 廊下に鮮やかに浮かび上がるΧくんの肌。Χくんは真っ赤になって体を隠すように廊下に座り込んだ。
 きくちゃんはタオルをつかんだまま廊下の向こうへと駆けて行く。フルチンでは追いかけようにも追いかけられない状況だ。
 そうだった。子供というのは時に大人以上に残酷なのものなのだ。それを念頭に置かなかった僕の失策により、Χくんは犠牲となったのだ。

「どうかなさいましたか!? ……あら、まあっ///」

 Χくんの悲鳴を聞きつけたまつ香さんがやってきて、つるんと綺麗な尻を出しながら蹲るΧくんの姿を捉えた。ああ、泣きっ面にハチとはまさにこのことよ。だがΧくん……貴殿の死は無駄にはしない。

「まつ香さん! お願いがあるんです! そこから動かず僕の声だけを聞いてください!」
「え……?」

 よし、これで一難去ったな……。

 僕達は、まつ香さんに経緯を説明して宿泊客用の浴衣を出してもらうことになった。これで着替えのある部屋に戻ればとりあえずは落ち着く。

 ……はずだった。







「無い……。どこにも無いぞ……」

 僕はボストンバッグの中身を全て引っ張り出して絶望的な気分になった。
 隣で同じような作業をしているネズを見る。浴衣姿のネズは僕と目線を合わせると、小さく首を振った。

「持ってきたはずの着替えが全部無くなってる……。一体どういうことなんだ……?」

 僕は立ち上がって、他の人達がどうなのか確認しようと廊下に出た。
 トランクスを履いている時とは違う心もとない風が股の下を通っていく……。浴衣は前で合わせる部分がそれほど広くない為、大股で歩くと太ももまでめくれ上がって非常に危険だった。
 廊下で、殺気を帯びたFMSくんとXくんに出会う。その顔を見れば、彼等の鞄の中にも服が無かったことを容易に察することが出来た。

「誰かは知んねーけど、舐めたマネしてくれるじゃないっすか……。4000円もしたRoenのパンツも盗まれてたんっすよ……」
「コロス……コロス……」

 Χくんは先ほどからずっとコロスコロスと呟いている。誰をコロスつもりなのかは知らないが、今のXくんに近づいてはいけない気がした。

「参ったな……。なんでこんなことになったんだ?」
 一磋さん、穴山さん、ペケ蔵さんもそれぞれ廊下に出てきた。大股で歩く一磋さんや穴山さんの足がちらちらと浴衣の間から見えて、僕は見たくもないのにいちいち気になってしまった。
「Χくんやネズくんのものならともかく、こんなオヤジの服など盗んでも何にもならないと思うんですがねえ……うへへ」
 そうだよなあ。穴山さんの服(※脱ぎたて)なんか金もらってもいらねえし。それより女性陣の……。

「……は! そういえば、女性陣の服はどうなんですかね!? 僕らと同じように盗まれてたりなんかしませんかね!?」

 ノーブラノーパン浴衣! ノーブラノーパン浴衣!

 僕は淡い期待を抱いた。


「あら、本当にみんな浴衣なのね」

 僕の淡い期待を一瞬で打ち砕き、風呂上りでやや湿った髪の海清さんが普通の洋服を着たまま部屋から出てきた。
「な? 言っただろ、姉貴」
 そうか。海清さんは一磋さんと同室だから、きっと彼から話を聞いたのだろう。
「じ、女性陣はなんとも無いんですか!?」
「ええ。お風呂から上がっても何の異変も無かったわ」

 僕らが廊下で騒いでいたせいか、残りの女性2人……キリコとユリカちゃんもひょっこり顔を出した。当然のようにいつもの格好だ。

「ノヴシゲ、どうしたの? 何の騒ぎ?
 ……どうしてみんな浴衣なの?」
「それが、僕らの服が全部盗まれたんだよ! 下着まで全部!」
「えっ……?」

 キリコは疑うように僕らの顔を見回したが、僕らの曇った顔を見て事実であると察したようだった。
 そして隣のユリカちゃんが耐えかねたかのようにプッと噴き出した。

「あはは、なんで男の人の服だけが盗まれちゃうんですかあ。イミわかんない!」
 意味わからんのはこっちも同じだ!

「……。……FMSくんの4000円もするパンツならともかく、着古した他の人達の服に大した金銭的価値は無いだろう……。
 ……他に考えられる理由としては……犯人が、男の服にしか興味を持たないとか……?」
 大真面目な顔をして分析をするネズ。
「いやいやネズ、4000円もするブランドのパンツだって言っても、他人が履いたパンツが欲しいか? それも金銭的な価値は無いだろ。……無いと言って!」
「……そうか。それもそうだな。となると犯人は汗臭い男の服を好んだとしか……」
 ちょっとっ、そういう怖い話はやめてもらえませんか?
 僕の頭の中に、僕らの服の臭いをスーハースーハー嗅ぐコナンに出てくる犯人のような黒い人物が浮かんだ。

「念のため聞くけど、女性陣には……覚えはないよね?」

 ペケ蔵さんが被害にあってない女性達の方に向き直って聴取を始めた。

「男性の汗の臭いは好きだけど、服を盗むほど落ちぶれてはいないわ」
「やだっ、そんなの盗むわけないじゃないですかぁ!」
「私も……。第一、これだけ大勢の人達の3日分の衣服なんて大量の物を、どこに隠せばいいんですか?」

 女性達は文字通り三者三様の反応を見せてくれた。僕だってそんなものいらないと思うし、ましてや女性陣が興味を持つようなものには思えない。ペケ蔵さんも「それもそうだよなぁ……」と呟いて、それ以上の追求はやめたようだった。

「だとすると、外部の人間かなあ……。
 ああ、満月さんが残っているな。満月さんが気を利かせて勝手にクリーニングに出した可能性も無くはない……かな?」

 ペケ蔵さんが腕を組んで考え出すと、FMSくんが泣きついた。

「頼んますよペケ蔵さん! オレのパンツ取り返してくださいよ!」
「そりゃ僕も着替えが無いと困るからちゃんと探すけどさ、パンツに4000円はいくらなんでもかけ過ぎだって言ったろ?」
「真にシャレオツな人間は見えないところにこそ金をかけるんっすよ!」
「そんなことよりその4000円で食費を払ってくれよ」
「勝負パンツくらい持ってたっていいじゃないっすかー!!」
「見せる相手もいないじゃないか……」
「……」
 FMSくんは白目で固まってしまった。

 ペケ蔵さんの言うとおり、見せる相手もいないのにパンツに4000円はかけ過ぎだと思う。彼女無し仕事無しの僕はこのところしまむらでしかパンツを買っていない。いや、しまむらの値段と品質で充分満足している。FMSくんもしまむらで買えばいいのだ。
 しかし、4000円もする男物パンツとは一体どんなものなのだろうか。女性物のフリルのふんだんに付いたサテンのパンティなんかではそれくらいしてもおかしくはなさそうだが。サテンの光沢ってなんかエロいんだよなぁ。上からなでなで触りたくなるっていうか。動画でしか見たことないけど。あ、でもFMSくんがそんな光沢のあるパンツ履いてたらなんかスゲーやだな……。

「そのパンツって、どんなやつ?」

 僕はつい聞いてしまった。

 FMSくんは待ってましたとばかりにちょっと得意げに説明を始めた。

「さっきも言ったっすけど、Roenので、黒地にドクロ柄のロックテイストのやつなんすよ! ちょうどアレみたいな!」

 そう言ってFMSくんは僕の背後を指差した。


 振り向くと、下へ降りる階段をちょうど降りていくようにふわふわと浮遊する黒いボクサーパンツがあった。


 なるほど、こんなのか。一見普通のちょっとオラついたイメージのパンツに見えるけど、きっと高いブランドなんだろうなあ。しかしこれに4000円か。ペケ蔵さんの言う通り、かけ過ぎに思えるな。



「ぱ、ぱ、パンツが浮いてるぞ!?」



 一磋さんが叫んだ。

 僕はハッとした。そうだ、パンツが浮遊などするはずがない。僕はこんなパンツの値段が4000円もするのだという異常性に捕らわれて、パンツが浮遊するという物理的にありえない現象に気付けなかった。

「あー! オレのパンツじゃん!!」

 FMSくんが慌てて階段へ走った。その拍子に階段の傍にいた僕はFMSくんとぶつかってしまい、体勢を崩してしまった。

 FMSくんの手から逃れるように浮遊するパンツは身(?)をかわす。

「えっ……?」

 逃げられると思っていなかったであろうFMSくんは、体勢の崩れた僕を巻き込んだままその身を階下へと落下させた。

「あああああああ!!」

 視界があちこちに回転して、体のいたる所を打ちつけて、一階まで落ちきった僕らは廊下の壁に激突して止まった。

「お、おい、大丈夫か!?」
 上から一磋さんが声をかけてくれる。衝撃で体中が痺れて頭もクラクラする。しかしなんとか頭を上げると、浴衣の裾が肌蹴て派手に露出したFMSくんの下半身が目に入った。
「……あ」
「ぅわっ……!」
 僕の目線に気付いたFMSくんは痛むであろう体を縮めて慌てて隠した。僕は見なかったことにした。というか今の記憶を一瞬で脳から消去した。
 2階を見上げると、一磋さんが女性陣の目を隠すように壁になってくれていた。さすがは一磋さん、優しいな。

「そ、そうだ、パンツ!」

 FMSくんが立ち上がろうとする先では、あのパンツが僕らを嘲るかのように上下に揺れていた。ポイントになって大きく描かれたドクロも手伝って、非常に憎たらしいパンツだった。
 あれがサテンのパンティだったら性的に挑発されているようで気持ちも昂ぶるが、男物のパンツではただ怒りが増すばかりだった。
 その怒りにまかせて、パンツに飛び掛ろうと思ったその時、



「おや、またやらかしてしまったのですね」



 暢気な声がパンツの向こう側から聞こえてきた。








 それは、まつ香さん、きくちゃんを従えた満月さんだった。














後半に続く

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雨ニモマケズ、あなたを待つ。


ねえ、あなたはいつ来てくれるの?

わたしはいつものように問いかける。
あなたを待ち続けて、どれくらいの時間が流れたろう。
わたしは身体が弱かったから、あなたの帰りをこうして窓際でじっと待ち続けるしかなかった。
窓の外を眺めながら、まだかまだかとあなたを待ち続けて。
あなたの姿が見えた時は、胸が急速に熱を帯びて、心臓が飛び跳ねるようにときめいて。
あなたはわたしを視界に捉えると、笑顔で手を振ってくれて。
わたしは、その瞬間に一番幸せを感じていた。
長い時間話していると、身体に悪いからと言ってあなたはすぐ帰ってしまおうとする。
わたしはあなたが帰ってしまわないよういつも駄々をこねてみたけれど、あなたは優しく微笑んで、「もう帰らなきゃ」と言ってわたしの手を握る。
わたしはうつむきながら、その微笑みはずるいと、いつも思っていた。
同時に、あなたの手から伝わるぬくもりは、なによりも愛しく思えて。
そして、いつも通りに、あなたは「またね」と言って、わたしの部屋から出て行った。
窓の上から、ゆっくりと遠ざかるあなたの背中を見送った。
また明日、いつものようにわたしに会いに来てくれると、当たり前のように思ってた。
けれど、その日からあなたはここに来ることは無くなった。
あなたを待ち続ける日々は、とても辛かった。
それでもわたしは、あなたの「またね」といういつも通りの言葉を信じて、窓の外を眺めて、あなたを待ち続けた。
そのうち、身体を起こして、窓から外を眺めるのが難しいくらい身体が、心が痛んでいって・・・・・・。
両親とお医者さんがわたしを見つめる中、わたしはまぶたを閉じた。
あなたに恋い焦がれながら。




気が付いたら、わたしは一人でここにいた。
お母さんも、お父さんもいなくなっていた。
だけど、寂しくなんかない。
いつの間にか、わたしを身体を蝕んでいた悪いものがいなくなっていたから。
そのおかげで、あなたをずっと待ち続けられる。
雨の日も、風の日も、雪の日だって、あなたを待ち続けることが出来る。
あなたが、わたしに笑顔で手を振ってくれる瞬間を待ちわびて。
今日もわたしは、いつものように問いかける。


ねえ、あなたはいつ来てくれるの?
ずっと、待ってるから……。

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変幻六花編BADENDその後 ~もしもゲスMSが一途だったら~ 後編









「起きるっす!! ノヴシゲさん!!」
 オレはいつまでも布団の中ですやすやと寝息を立てているノヴシゲさんを叩き起こすために布団を一気に剥いだ。もう十時を過ぎてしまっている。寝坊だ。
「・・・・・・さむい」
 ノヴシゲさんはそうつぶやいて、まるで胎児のように身体を縮めた。そりゃ寒いだろう。ノヴシゲさんはその身に何も纏っていないのだから。オレたちは毎日のように肌を重ねている。ノヴシゲさんが素っ裸なのはその名残だ。
 例のあざが白日の下に照らされ、オレは顔を歪める。ノヴシゲさんがうちに来てから何日も経っているのに、あざは未だに身体から消えることはない。見るたびに怒りがわき、不安になる・・・・・・こんなもの、さっさと消えて欲しい。いや、消えるべきだ。
「まったく、いつからこんなに朝寝坊するようになったんすか? さっさと起きないと大人のイタズラしちゃうっすよ? うひゃひゃ!!」
 最近、ノヴシゲさんは朝起きるのが遅くなってきた。というよりも、日が経つにつれ一日あたりの睡眠時間が増えているような気がする。新しい環境になって疲れが溜まっているのだろうか。
  それに、肌を触れ合わせるたびに、ノヴシゲさんの体温が少しずつ低くなっているような気がして・・・・・・それが嫌でしょうがない。首を掻き毟りたくなる ほど苦しい。それは、何よりも恐ろしい結末に繋がっているように思える。夜、行為が終わった後オレは布団の中で何度も震えた。
 ノヴシゲさんはのろのろと上半身を起こした。オレはノヴシゲさんの着替えを手伝うために、畳の上にひざをついて、着替えの入った籠に視線を動かし縁に手をかけて引き寄せた。
「起きたらちょっと遅いけど朝飯食って、いつものように散歩するっすよ」
「・・・・・・」
 あの焼きただれた残滓が再び目に入らないよう細心の注意を払いながら、散歩は何とか続けている。そうしなければ、近いうちに歩けなくなってしまうだろうという危機感。それでも、オレをあざ笑うかのようにノヴシゲさんの歩く速度はだんだん落ちてきていた。
「今度はどのコースにするっすかねえ。狭い村なんで、いいかげんレパートリーが・・・・・・」
 そう言いかけながら、オレは振り向いた。
「まーた泣いてんすか、ノヴシゲさん」
  ノヴシゲさんは、外を見ながら涙を流していた。またか! 若様のところにいる頃から時々涙を流していた事は知っていたが、この頃はその回数が増えていた。 この頃というよりも、一緒に散歩に行って、あの家を見た時からかもしれない。
 若様の力で、ノヴシゲさんはずっと幸せな夢を見ているはずなのに。それに綻びが出来てしまったのだろうか。
 オレは苦々しく思いつつあわてて口を開く。
「別になーんも寂しいことはないんすから、泣かなくても良いじゃないっすか。呼んでくれれば、このモリヤ様がすぐにでも飛んでくるっすよ! 見返りは当然いただくっすけどね。この世の中、ロハより高いものはないって言うじゃないっすか。うひゃひゃ!」
 そして無理やり笑顔を作りながらノヴシゲさんに服を着せていく。
「・・・・・・キンパチ」
「いやホントマジでモリヤっすから。オレはそんなダサ男じゃないっすから。頼むっすよマジでノヴシゲさん」
 ノヴシゲさんの小さなつぶやきにも、いちいち訂正しないと気が済まない。無視すればいいのだろうか。いや、それじゃ駄目だ。こうやって一回一回訂正していけば、いつかはノヴシゲさんがその柔らかい唇で「モリヤ」という名を紡いでくれるに違いない。
 服を着せてティッシュで涙を拭いてやっていると、チャイムが鳴った。どうせ宅配便か何かだろうと思って気にせずにいると、ふすまの外から声を掛けられる。
「失礼致します、坊ちゃま。若様がおこしになられたのですが」
 オレは舌打ちをした。何の用だっつの。
「・・・・・・あー、いちおー応接間に通しといてくれる?」
「かしこまりました」
 オレはばあやにそう告げると大きくため息をついた。顔も見たくねえけど、しゃあない。
「そんじゃさっさと追っ払ってきやすんで。オレがいないからって泣いたりしないで、おとなしく待ってるんすよ?」
 オレはノヴシゲさんの頬をなでる。反対側の頬を見ると、涙はいつの間にか止まっていたようだ。オレはホッとすると、立ち上がって応接間に向かった。

「サーセン、待たせました。ご無沙汰っす」
 若様はいつものようにフードを深くかぶりサングラスをかけた格好で、応接間の椅子に座っていた。若様は気安く片手を挙げて声を掛けてくる。
「どうもどうも。こちらこそご無沙汰しておりまして申し訳ありません。いやあ、新しいお紅さまにかまけていたら時間の経つのが早い早い! あなたのおかげで村は発展、わたくしも毎日が充実しておりますよ。はっはっは!」
 耳障りな笑い声だ。そんなどうでもいいことをわざわざ報告しに来たのだろうか。オレはテーブルを隔てた向かいの椅子に座ることなく口を開く。
「はあ、それはよかったっす。それで、なにかご用っすか?」
「まあまあ。そう焦らないで、とにかくお座りください」
 若様に促され、オレはしぶしぶ椅子に座る。長くなってはたまらない。早くノヴシゲさんと散歩に行きたい。若様はオレの様子を知ってか知らずでか、ゴホンと一つ咳払いした。
「さすがのわたくしも心配になって様子を見に来たのですよ。猿飛くんとお紅さまはうまくやっているのかとね」
「はあ」
 その時、応接間のドアがノックされ、ばあやがお茶を持ってやってきた。テーブルの上にお茶を置くと、若様は頭を下げる。そしてばあやは黙って退室して行った。
「これはわたくしが選びに選んで特別に取り寄せたお茶ですので、どうぞ飲んでみてください。驚きますよ~!」
「はあ。いただきます」
 オレは湯気が立っているお茶を手に取ると口をつける。若様がじっとこちらの反応をうかがっているようだったので、一つ頷いて見せてやった。
「うまいっす」
「そうでしょうそうでしょう! いやあこのお茶はですね、なんと熟成期間が・・・・・・」
 若様は自分の持ってきたお茶のウンチクを実に楽しそうに語りだした。オレは若様の話が右耳から左耳に通り抜けていくのを感じながら、うんうんと何度も頷いた。
 いつまで続くのかとイライラし始めた頃、若様はやっと本題に入ったようだった。
「それで、お紅さま・・・・・・ノヴシゲさんの具合はどうですか?」
 サングラスの奥の瞳が鈍く光る。
「具合・・・・・・っすか?」
 妙な言い方だな、と思った。ノヴシゲさんの体調が優れない事を知っているのだろうか?
「ええ・・・・・・ああ、あなたにはもう少し言葉を選ぶべきだったかもしれませんね。失敬失敬」
 オレはその物言いに引っかかりつつも、無表情を装う。若様は耳打ちをするように手を口元に添えて顔を寄せてくる。
「・・・・・・彼女、床上手でしょう? あなたもだいぶお楽しみになっているのではないかと思いましてね。彼女、何でも言う事を聞くでしょう? いやあ、あそこまでにするには苦労いたしましたよ、はっはっは」
 火薬に火がついたように、頭の中がカッとなる。ぶん殴りそうになるのを、オレはこぶしを思い切り握り締めて耐える。こいつをぶん殴ったら、今度はどんな恐ろしい罰を与えられるかわからない。
「ははは・・・・・・そっすね。最高っす」
「そうでしょうそうでしょう! いやあ、一度彼女と寝屋を共にすると、他の方ではなかなか満足できなくなってしまって困りモノなんですよね。今は新しいお紅さまを、お紅さまに相応しくするべく指導中なんですがね。まだまだ時間がかかりそうですねえ」
「そっすか。頑張って下さい」
 オレは顔に出さないよう全神経を集中させる。無理やりに笑顔を作る。それでも額には脂汗が滲んで身体の芯は燃え盛るように熱くなっている。
「それでふと彼女のことを思い出しまして。彼女はあなたとちゃんとうまくやれているのか、とね。何かあればわたくしが相談に乗りますので、なんでもおっしゃってください。なにしろ、わたくしは彼女のことを知り尽くしておりますからね・・・・・・ククク」
 なにが知り尽くしているだ! ふざけやがって!!
 オレは錆び付いた機械のように、ギギギという擬音を発しそうになるくらいぎこちない動きで、首を振った。
「ま、まさか! 若様にご相談できることなんて・・・・・・」
「嘘はいけませんよ猿飛君。わたくしとあなたとの仲じゃないですか。遠慮なんて水臭いですよ。さあ、何でもおっしゃってください」
 こうなってしまうと若様はオレが何か相談するまで帰らないだろう。何もないと言って押し通しても、若様は非常に機嫌を悪くする。何か言わないといけないのか・・・・・・。
 そうだ、いいことを思いついた。こいつがどうにもならなそうなことを相談して、解決策を提示できずに困る顔を見てほくそ笑むこととしよう。
「すいやせん、一つだけあるっす。実は、ノヴシゲさん、なんでかわかんないんすけど、オレが何もしてないのに時々泣くんすよね。うざったいんで早く泣き止ませたいんすけど、どうすればいいっすかね?」
「ああ、それですか! わたくしもそれには何度も嫌な思いをさせられたものです。ですが、実はですね、いい方法があるんですよ」
「え? そ、そうなんすか?」
 オレの予想とは違って、若様は早く言いたくて仕方がないといった雰囲気で身を乗り出してくる。正直興味があるので、オレは耳を澄まして答えを待った。若様は内緒話をするように、ここぞとばかりに声を潜めた。
「それはですね、根津くんのマネをすることなんですよ」
「・・・・・・は?」
 思わず妙な声が出てしまう。何かの聞き間違いかと思い、その言葉の意味を考えようと硬直していると、若様は喜々として同じ言葉を繰り返した。
「で すから、彼女が泣いてしまった時は、根津くんのモノマネをするんですよ。それこそ、口調をマネするくらいで構いません。それだけで彼女はあっという間に泣 き止み、こちらに甘えてくるのです。その後のまぐわいと言ったらもう・・・・・・燃え上がってすごい事になります。効果てきめんですから、ぜひ一度お試し あれ!」
 若様はなんだか偉そうに胸を張った。
 ・・・・・・あ、そっか。この人偉いんだったっけ。
「なるほどっ、それはすごいっす!! 今度オレに黙って泣いてやがったら早速試してみるっす!!」
「ええ! 本当に面白いくらいに効果がありますので。驚きますよ!」
 オレは手をパチパチと叩いてニヤニヤする。
「ネズのモノマネかあ。良いこと聞いちゃったっす!!」
「もっと早くお伝えしていれば良かったですね、申し訳ございませんでした。それでは、わたくしはそろそろおいとましますね」
 若様はそう言うと急に立ち上がった。藪蛇かもしれないとは思いつつ、オレは聞かずにはいられなかったので口を開く。
「お紅さま・・・・・・ノヴシゲさんの顔は見ていかないんすか?」
「ああ、それには及びません」
 短い言葉ではあるが、自分が棄てた女に今更会う必要はないといった意思が感じ取れた。
  正直、若様にノヴシゲさんとは会ってほしくはない。けど、いままでずっと世話になっていたくせに、まるで興味がないといった態度をとられるのも腹が立つ。 まあ、会わないと言ってくれたのだから気にしないことにする。眉毛ぐらいはぴくぴくと引きつってしまっているかもしれないが。
「わかったっす。それじゃ玄関までお送りするっす」
 オレも立ち上がってドアを開き、手振りで部屋の外を示した。
 若様は玄関で靴を履くと慌ただしく帰っていった。あの人はああ見えて忙しい。もしかしたら時間が押していたのかもしれない。ホント、わざわざご苦労さん。てかノヴシゲさんに会わないんなら電話で良かっただろ糞野郎。
 オレはノヴシゲさんの部屋に急ぎ足で戻った。
 ノヴシゲさんは、外を見ながら畳の上に腰を降ろしている。太陽は南東。差し込んだ光がノヴシゲさんの白髪を輝かせる。その横顔は、誰よりも綺麗で、誰よりも愛おしくて。
 オレはノヴシゲさんの傍らに立つ。
「・・・・・・キンパチ」
 そうつぶやく彼女は、大粒の涙を流していた。

 根津くんのマネをすることなんですよ。それだけで彼女はあっという間に泣き止み、こちらに甘えてくるのです。
 なるほどっ、それはすごいっす!! 今度オレに黙って泣いてやがったら早速試してみるっす!!

 糞と馬鹿の会話がフラッシュバックする。
 オレはグッと息を呑みこむと、しゃがみ込んで、ノヴシゲさんの頭を優しく抱いた。
「・・・・・・すげー待たせちゃってすいやせんでした、ノヴシゲさん。このモリヤ様が戻ったからには、泣くことなんてないっすよ」
「・・・・・・」
 彼女は、泣き止まない。
「寂しかったんですよね? オレがいなくて、怖かったんですよね? だけど今はオレがいるじゃないっすか。だから、もう泣かなくていいんすよ、ノヴシゲさん・・・・・・」
 ネズの野郎のマネなんかしてやるもんか。
死んでもやるもんか!! ノヴシゲさんには、オレを見てほしいんだ!! オレが一緒にいることで、安心してほしいんだ!! オレだけを見て、オレだけ想ってほしいんだ!! ネズに向けられた想いをオレが受け取るなんて嫌だ!! 絶対に嫌だ!!
「・・・・・・キンパチは?」
 それでも、想いは通じない。
 オレは心がズタズタになりそうなほどの痛みを感じながら、ノヴシゲさんが泣き疲れて眠ってしまうまで、懸命に慰め続けた。


 ノヴシゲさんの睡眠時間が明らかに長くなった。
  というのも、何日か周期に一日中眠り続けることがあるのだ。はじめてそうなった時の驚きと言ったらなかった。いつもの寝坊かなと思ったら、いつまでも待ち 続けても一向に目覚めなかったのだ。焦ったオレは名前を呼び掛けてみたり、肩を揺すったりしても全く起きる気配がなかった。
「そろそろ限界ですね」
 若様の、いつか聞いたそんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 オレは急いで医者を呼んだ。診察の結果は「ただ寝ているだけ」だという。目覚める時を待つしかない。そもそもお紅さまの身体は普通の人間とは違う。正直に言えばどうなるかわからない。オレはそう言われた。
 ただ、寝ているだけ。
 胸に耳を当ててみると、心臓のほのかな鼓動を確かに感じた。なるほど、いつもの寝坊が日をまたいでいるようなものか。朝寝坊ここに極まれり。
 けれども、ほぼ微動だにせず、白磁の如く血の気が無い肌を持ち、触れればヒヤリと冷たいその身体はまるで死んでいるかのように思えて、オレは恐怖で震えた。
  本当にただ寝ているだけなのだろうか。本当に目覚めるのだろうか。もう二度と目覚めないのではないか。もう「限界」なのだろうか。そんな絶望にも等しい想 像が頭の中をぐるぐるとかきまわす。かき乱す。オレはどこかに出かけたり他の部屋に行ったりする気にもなれず、ずっとノヴシゲさんのそばで様子を眺め続け た。
 だから、ノヴシゲさんがまぶたを開けた時は。
 感極まって思い切り抱きしめてしまった。
 そして彼女は。
 またも泣く。

「・・・・・・またっすか」
 散歩をするためにオレが自室に戻って着替えている間に、ノヴシゲさんは泣き始めたらしい。
  外に顔を向けながら、透明で塩っ辛い雫を大きな瞳から垂らしている。なぜいつも外を見ているのだろう。それは、誰かを待ち続けているのではないか。きっと オレではない。はるか昔に肉塊となった、あの野郎を。これだけオレが想っているのに、あれだけ身体を重ねたというのに、それでもネズの野郎が良いのだろう か。
 そう思った瞬間、オレの中の、ずっと我慢していたなにがしかの緒が切れてしまった。
「泣いてんじゃねえよっ!!」
 オレは絶叫した。さすがのノヴシゲさんも少しだけ身を震わせると、更に大粒の涙を流し始めた。
  しまった・・・・・・やっちまった。そう思ってももう遅い。オレは、自分の想いが伝わらないばかりに、ノヴシゲさんに八つ当たりをしてしまった。やるせな い、激しい後悔が襲ってくる。そもそもこうなってしまったのは若様、いや・・・・・・この村と、ナガムシ様のせいなのだ。あとは、オレか。オレも悪いの だ。だから、オレがノヴシゲさんに対して怒るのはおかしなこと。
「・・・・・・・キンパチは?」
「モリヤっす。ネズはいねえっす」
 それでも言わずにはいられない。やっぱりノヴシゲさんにはオレを見てほしいのだ。ノヴシゲさんの想いはネズのためだけに向けられるものじゃないのだと。諦めたくないのだ。
 時間が、欲しい。もっと。
「そろそろ限界ですね」
 そんなわけがない!
 ほとんど歩けなくなっているとしても、泣く回数が増えているとしても、寝ている時間が多くなっているとしても、心臓の鼓動が小さくなっているとしても、食事する量が減っていっているとしても、身体がどんどん冷たくなっているとしても、ノヴシゲさんはまだ限界じゃない!!
 せめて一度。オレを見て、笑って、モリヤと言ってくれたら。
 そんな渇望を胸に、オレは、ノヴシゲさんに笑いかけ続けた。


「う~、さみぃ・・・・・・」
 思わず泣きが入る。廊下は冷え切っていて、スリッパを履いていなければ足元から凍りついて行くだろう。そんなふうに錯覚するほど寒かった。
「ばあやも暖房入れといてくれりゃあよかったのに・・・・・」
  事実、外では初雪が深々と降っている。降り始めで積もってはいないが、予報ではかなり積もるとのこと。雪が降りしきり積もり過ぎると、村と県道を結ぶ唯一 の道が塞がれて、車が通れなくなり、村が外から孤立してしまうこともある。そこまでは降らないでくれと祈りながら、オレは廊下を歩いている。
 心 臓はバクバクだ。というのも、今は朝八時過ぎ。記録更新する勢いで、ずっと目を覚まさないノヴシゲさんを無理やりにでも起こそうと決意を固め、顔を洗って きたところなのだ。目を覚ましているか、それとも寝たままなのか・・・・・・ここのところ三日ほど眠り続けている。その間に一睡もしていないオレは、さす がに眠くなってしまって、心を落ち着かせるためにも顔を洗いに行った。今日こそは目覚めるはず。そう信じていても、心臓が暴れるのを止めることが出来な い。どうしても最悪の事態を想像してしまって、緊張してしまう。
 大丈夫。根拠のないポジティブさはオレの持ち味。だから、大丈夫。
 オレは深呼吸を何度も繰り返して、ノヴシゲさんが寝ている部屋の襖を、意を決して一気に開いた。
「・・・・・・起きてたんすね、ノヴシゲさん」
  あれだけ深呼吸したのに、胸をなで下ろし、また大きく息をはいてしまった。ノヴシゲさんは雪の降る、よく手入れのされた中庭を眺めていた。オレはごしごし と両目を擦る。白く染まりつつある外の風景にノヴシゲさんの髪が同化して、その姿が消えていってしまったように見えたからだ。充血するほど目に気合を入れ て、目ん玉をひん剥いてノヴシゲさんの姿を捉える。
 うん、ノヴシゲさんはちゃんとここにいる。消えてなんていない。
「外、だれか来そうっすか? こんな雪の中じゃ、サンタだって外出するのをためらうんじゃないっすかね」
「・・・・・・きれい、だから」
「ノヴシゲさん?」
 おっ、と思った。今まではオレの言葉に応えてくれることはほとんどなかったから。なんだか良い傾向に思えてオレは鼻歌を歌いたくなった。
「たしかに綺麗っすねー。オレもガキん時は雪が降る度に興奮して外で暴れまわったもんっすけど。純粋だったんすね。今となっては雪なんて降られても煩わしいだけっすけどね。ああ、思い出すのはオヤジに雪かきをやらされまくった日々・・・・・・」
「・・・・・・うん」
「とはいえオレも雪は好きっす。キラキラしてて、小さな水晶みたいで、そんなのが空からいっぱい降ってきてさ。なんかドキドキするっす」
「・・・・・・」
 何言ってんだオレは。恥ずかしい。調子に乗ってしゃべりすぎだ。オレのクールなイメージが崩れる。
 ノヴシゲさんが雪に熱中している今のうちに布団を仕舞っちまおう。布団を出しっぱなしにしていると、知らず知らずのうちにノヴシゲさんが布団にもぐりこんでしまうからだ。
「・・・・・・さむい」
 敷布団を先に押し入れにしまったところで、ノヴシゲさんはそうつぶやいた。そら寒いだろう。ノヴシゲさんはいつの間にか窓を開け放っていた。暖気が逃げ出す。大量の冷気と雪の粒が入り込む。
「ちょ、なに窓開けてんすか!?」
「・・・・・・このほうがいい」
「いやいや、寒いんすよね? だったら窓閉めた方がいいっすよ」
「・・・・・・」
  ノヴシゲさんから無言の圧力を感じる。ノヴシゲさんは薄い寝巻を一枚羽織っているだけの状態で、縁側にお尻を着けて座っているので、相当な寒さを感じてい るはず。それでも窓を閉めたくないのか。こんなにはっきりと意思表示をするノヴシゲさんを見るのは初めてだった。オレは嬉しくなった。体調が快方に向かっ ているのではないかと。これなら、近いうちにオレを見てくれるようになるのではないかと! 
「・・・・・・はあ、ノヴシゲさんはわがままっすねえ! しょうがないっすけど、許してやるっす!」
 オレは毛布を掴むとノヴシゲさんの隣に座って、二人で一緒に毛布にくるまって、頭を寄せた。
「特別っすよ? オレがわがままをきく女なんて、この世に二人といな・・・・・・!?」
 オレは、絶句した。
 触れたノヴシゲさんの身体は、酷く冷たかった。ずっと薄着でいたからとか、外の冷気に触れていたからとか、そういう問題ではない。
 なにが、快方に向かっている、近いうちにオレを見てくれるようになる・・・・・・だ。
 そんな儚い希望を一発で打ち砕くような、絶望的な冷たさだった。心臓は動いているのだろうか。瞳もいつも以上に虚ろで。こんなにも冷たくて、心臓の鼓動さえも感じない。これが、本当に人間の身体なのだろうか?
 背筋が凍る。震えて、歯がガチガチと鳴りだす。なによりも恐れていたことが、すぐ目の前に迫っている・・・・・・。
 けど、まだノヴシゲさんは息をして、雪を見ているじゃないか!
 限りなく虚ろに近く、限りない美しさを湛えた瞳。その瞳は、目の前を降りしきる雪をきっと捉えて。命はまだここにある。
 そうだ、オレも雪を見よう。そうすれば、ノヴシゲさんと同じ時を、感覚を共有できる。オレは頬を寄せて、外に視線を向けた。
 雪が降っている。キラキラと、ゆらゆらと、光をチカチカと反射しながら地面へと舞い降りていく。まだ朝の陽ざしの熱が残っているのか、雪は地面や屋根などに触れて消え去っていく。それを見ていると、オレはなんだか感傷的になってしまった。
「・・・・・・そういえば若様がノヴシゲさんのこと雪みたいな人ですねって言ったっけ。あんな野郎に同意するのはシャクっすけど・・・・・・オレも、そう思うよ。ノヴシゲさん、雪みたいに白くて、儚くて、すげえ綺麗っすもん。それに・・・・・・」
 そして、雪のように、溶けてオレの前から消え去ってしまうのだろうか。
 オレは思わずノヴシゲさんを抱きしめていた。
「・・・・・・あったかい」
「オレも! ・・・・・・オレも、あったかいっす」
 嘘だ。
ノヴシゲさんの身体は限りなく冷たい。だから、せめてオレの熱を、命の灯火を少しでも与えられたら。そう思って、必死に抱きしめ続ける。
「・・・・・・」
「・・・・・・ノヴシゲさん」
 それでも、いつの間にかまぶたは閉じられていて。
「・・・・・・」
「・・・・・・ノヴシゲさん?」
 確実にその時は迫っているようだった。
「ノヴシゲさん!!」
 オレが悲鳴に近い声を上げると、ノヴシゲさんはゆっくりとまぶたを開いてくれた。
 くそ、いつになったらノヴシゲさんから暖かさを感じられるようになるんだ! これだけ抱きしめているのに! これだけオレの身体は熱いのに!!
 ノヴシゲさんは、弱々しく、ほのかに笑みを浮かべた。
「・・・・・・あったかいよ」
 よかった、オレの体温は、オレの想いはちゃんと伝わっている。そう思った。・・・・・・そう思っていた。ノヴシゲさんの、その言葉を聞くまでは。
「あったかいよ・・・・・・キンパチ」
 オレは泣きそうになった。
 やっぱりネズなのか・・・・・・? ネズの野郎じゃなきゃ駄目なのか?
 どうしようもなく悔しくて、どうしようもなく悲しくて、オレは叫んだ。
「キンパチじゃねえ!! オレはモリヤだ!!」
 ノヴシゲさんはその身をビクリと震わせた。そして、思いがけないことに、いつもの虚ろな瞳と無表情さを崩して、悲しさで表情を歪ませて、涙を流し始めた。
「の、ノヴシゲさん?」
「キンパチ・・・・・・キンパチ・・・・・・会いたいよ・・・・・・」
「ごめん、ノヴシゲさん!! オレは・・・・・・そんなつもりじゃ・・・・・・!」
「うぅ・・・・・・キンパチ。キンパチ・・・・・・」
 その涙を流すたびに、ノヴシゲさんの命が失われていくような気がして。
 事実、泣きながらもそのまぶたは再び閉じられていく。オレの体温が、ノヴシゲさんに伝わることは、もうないだろうか・・・・・・。
 ノヴシゲさんが、死ぬ。気が狂いそうになるほど冷酷な現実が、すぐ目の前にある。嫌だ・・・・・・ノヴシゲさんがいなくなるなんて。まだオレを見てくれてもいないのに!
 それでも、人はいつか死ぬ。それが早いか遅いかは人それぞれだ。だとしたら、せめて死ぬ時ぐらいは笑っていてほしい。悲しい心を抱えたまま死ぬなんて、それほど恐ろしいことは無いじゃないか。だから。
 ノヴシゲさんに泣いて欲しくない。オレが近くにいるって伝えてあげたい。一人じゃないって伝えてあげたい。そうすれば、その悲しみが少しは和らぐのではないだろうか。
 だけど、オレの言葉で、ノヴシゲさんは本当に泣き止むのだろうか。今までは、オレが何を言っても泣き止んでくれることはなかったから、結局はほとぼりが冷めるのを、馬鹿みたいに待ち続けるだけだった。

「それはですね、根津くんのマネをすることなんですよ」

 若様の言葉が頭をよぎる。そうか、若様はネズのマネをすればノヴシゲさんは泣き止むと言っていた。じゃあ、ネズの・・・・・・あの野郎のマネさえすれば、ノヴシゲさんは・・・・・・。
 だけど、オレは今までずっと虚勢ばかり張って・・・・・・調子のいいことばかり言って・・・・・・嘘ばかりついてきて・・・・・・・人を傷つけてきて・・・・・・逃げてばかりで。それで、自分の好きなヤツの最期にまで嘘をついていいのか!?
 それでオレは納得できるのか? 嘘なんかで、ノヴシゲさんの悲しみを本当の意味で和らげることができるのか!? ネズはもういないんだぞ!? いないヤツを想い続けてなんの意味があるんだ!!
 そんなの欺瞞だ。逃げだ。オレは、やっぱりオレを見てほしい。オレなら、オレの想いがあれば本当の意味でノヴシゲさんの涙を止めることが出来るはずだ。
「そういえば・・・・・・オレはまだ、ノヴシゲさんにはっきりと気持ちを伝えたことがなかったっすね」
 オレは、ノヴシゲさんの心に届いてくれると信じて、想いを伝える。
「オ レは、ノヴシゲさんのことがずっと好きだったんす。ノヴシゲさんが、女の姿になってオレの前に現れた、その時から。へへっ、野郎の時は全く興味なんてな かったんすから勝手なもんっすよね。それから、ずっとノヴシゲさんだけ見てた。ネズと一緒にいる時も、ナガムシ様のものになっちまった時も、ずっと。ノヴ シゲさんを引き取ることが出来た時のオレの喜びがわかりますか? ホント、嬉しくて嬉しくてしょうがなかったっす。自分自身、こんなに好きだったのかって 思ったくらいっすから。だから・・・・・・もっと早く素直になっていれば、こんなことにはならなかったんすかね、ノヴシゲさん・・・・・・」
「・・・・・・」
「ノヴシゲさんにはオレがいるっす。オレはネズみたいにノヴシゲさんを置いて死んだりしない。オレの想いだって、ネズなんかには負けない!! だから、泣き止んで、オレを見て、笑ってくれ!! ノヴシゲさん!!」
 オレは振り絞るように叫んだ。
 けれども、オレの想いも虚しく、またしてもノヴシゲさんの頬を伝う涙。
「・・・・・・キンパチ」
 その口からは、またしてもあいつの名が紡がれて。オレの想いは、伝わらないのだと、わかってしまった。
 オレの想いは、オレの今までの行為は、ノヴシゲさんと一緒に過ごした時間は。
 すべてが無駄だったのだ。
「ノヴシゲさん・・・・・・」
 もう、いい。
 オレの気持ちもわからないこんな女、ネズの野郎がいないという恐怖に慄きながら、寒さに震えて一人で死んでいけばいいんだ。オレはもう知らねえ!!
「・・・・・・うぅ」
 ・・・・・・だけど。
 ノヴシゲさんは、泣きながら、震えながら。きっと怖いだろう。もうすぐで、息を止めて・・・・・・雪のごとく冷たくなって。胸に悲しみを抱えたまま。一人で、いなくなる。それで、オレは良いのか? それで後悔しないか?
 オレが好きなのは、泣いている顔じゃなくて・・・・・・やっぱり、笑っている顔で。
「・・・・・・チッ」
 良いはずなんか、無かった。オレって本当に馬鹿だなあ・・・・・・。どうしようもなくオレらしくない。本当の意味とか、欺瞞だとかそんなのはどうでもいい。真正面からぶつかって熱血するのはネズだけでいい。オレは、小物で、姑息だ。
 好きになった女には、たとえそれが嘘の言葉だとしても、裏切って騙していたとしても、それでも幸せになるようにするのがオレだろうが!
「・・・・・・。ノヴシゲ、俺はここにいるぞ」
 ちゃんとネズに似ているだろうか。あの野郎の口調は、嫌というくらい覚えている。あんなふうになれれば、ノヴシゲさんに振り向いてもらえるかもしれない。そんなふうに思って、羨望の眼差しで二人を見ていた。
「・・・・・・。そう泣くな。俺がいるだろ?」
 オレはノヴシゲさんの頭を撫でてやった。あいつは、こんなふうに柔らかく撫でていたはず。ああ、あいつはこうすることをノヴシゲさんから許されていたなんて。本当にうらやましいぜ、ネズの野郎・・・・・・。
 すると、ノヴシゲさんはほぼ閉じかけていたまぶたを開けて、オレを、戸惑うようなその瞳で、まっすぐに見つめてくる。オレも、正面からまっすぐに受け止める。
「・・・・・・キンパチ。やっと来てくれたの?」
「・・・・・・。ああ、遅れてすまなかったな」
 オレがそう言って微笑むと、ノヴシゲさんも笑った。その笑みは、本当に嬉しそうで。オレが今まで見た中でも、一番魅力的な笑顔で。その瞳も、虚ろではないような気がして。
  突然、ノヴシゲさんはオレにキスをしてくる。ノヴシゲさんからしてくれた、最初で、最後の。まるで永遠のような。そんな陳腐な表現を使って、この特別な瞬 間に花を添えたくなる。だけど、永遠・・・・・・そんなわけがない。オレとノヴシゲさんの唇が触れ合っている時間は、泣きたくなるくらい短かった。
「・・・・・・ありがとう」
 ノヴシゲさんは静かにささやくと、まぶたを閉じてしまった。まるで居眠りをするかのように、頭がこくりと落ちる。その表情はとても穏やかで、幸せそうに見えた。
 雪は降り続き、何もかもを白く染める。入り込んだ雪がノヴシゲさんの頬に触れた。その一粒の結晶は、いつまでたっても溶けることなく、頬に張り付いたまま美しい形を保っていた。
「・・・・・・。ノヴシゲ、まだ寒いか? それとも、もう寒くないか?」
 オレがいくら話し掛けても、返事をしてくれる事は、もうない。
 その唇には、身体には、オレの熱がまだ残っているかもしれない。だけど、そんな微熱じゃノヴシゲさんのためになりはしなかったのだ。
「ははは・・・・・・」
 思わず笑ってしまう。なんて、なんて単純なヤツなんだろう・・・・・・哀れなほどに。
 オレは呻くと両腕に力を込める。視界が、みるみる歪んでいく。

「そんな単純で・・・・・・いいのかよ。あんた、あれだけネズのことが好きだったくせに。オレのヘッタクソな演技なんかに騙されやがって、こんなに嬉しそうに笑って・・・・・・本当に良かったのかよ。なあ、応えてくれよ。ノヴシゲさん・・・・・・」

 その問いかけに答えるはずの人が、オレのために笑ってくれたことは、一度もなく、そして、これからも二度とないのだと思うと、オレは彼女がすでに抜け殻であると知りつつも、すがり付かずにはいられなかった。

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変幻六花編BADENDその後 ~もしもゲスMSが一途だったら~ 前編

※変幻六花編BAD END後のエピソードになりますのでクリアしていない方、変幻六花編が趣味じゃなかった方はご注意ください。
 知らない人のために:ゲスMSとは、変幻六花編のFMSがあまりにもゲスいので、くんさきさんの実況動画中に命名された名誉あるあだ名である。



























 この手に残る、吐きそうになるくらい嫌な感覚。凶器を持って、あいつを、殴り傷つけてしまったという忌々しい記憶。艶やかな黒髪に滲んでいく、真っ赤な液体。まるで一枚の絵画のように頭に焼きついてしまった、その一瞬・・・・・・。
 それを、一生忘れる事はないだろう。


「よくぞやりとげましたね、猿飛君。わたくしの新しいお紅さまとなられる方を、まさか本当に連れて来ていただけるとは。いやあ、正直あなたには少し荷が重いかなと思っていたのですがね・・・・・・大変失礼致しました。あなたのような優秀な部下がいてわたくしも鼻が高いですよ」
「そりゃそうっすよ! なんてったってオレ様っすから!! ・・・・・・約束通り、前のお紅さまはオレが貰っちゃっていいんすよね?」
「ええ、どうぞ。あなたになら喜んで差し上げますよ」
「よっしゃ!! そんじゃ連れて帰りやすんで」
「むしろ褒美があのような絞り粕で本当に良いのかと思えるほどです。おっしゃっていただければもっと良い褒美も与える事もできるのですよ? おっと、新しいお紅さまと言われても困ってしまうのですが・・・・・・ククク」
「いやあ、もうぜんぜん大丈夫っす! なんでオレもう行きますね!」
 オレはそう叫ぶと、ひらひらと手を振りがならナガムシ様に背を向けて歩き出す。
「・・・・・・せいぜい・・・・・・時間を、お楽しみください」
 背後でナガムシ様が何かつぶやいたような気がしたが、オレは特に気を留めることなく部屋を出た。
 いや、今はナガムシ様ではなく若様か?
 まあどっちでもいいか。糞をわざわざ区別する必要はない。

 オレは早歩きでお紅さま・・・・・・元お紅さまがいるはずの部屋へと向かう。どうにもこうにも気が逸ってしまうのを止めることが出来ない。心臓が早鐘を打つ。廊下は冷え切っていて、もうすぐで冬本番というのに額に汗がにじむ。
 オレはナガムシ様と、ある約束をしていた。新しい生け贄を連れて来れば、今のお紅さまはオレに譲ってもらえるという約束だ・・・・・・!!
 だから気が逸ってしまうのもしょうがない事だと思う。ナガムシ様への新しい生け贄とやらを、オレはやっとのことで連れて来ることが出来たのだから。
 新しい生け贄を連れて来るのは並大抵ではなかった。どうやって連れて来たのかなんて正直思い出したくもない。あんな強引な手段で良かったのかはわからないが、あとは若様が勝手にどうにかするだろう。
 これからはお紅さまの変わりに新しいお紅さまが犠牲となって、この辛気臭い村を続けて繁栄させていくのだろう。
 人さらいみたいな真似までして、こんなにも歪み切った村を本当に存続させなければならないのだろうか。
「・・・・・・まあその甘い汁を吸ってるオレに文句たれる資格はないっすけど」
 一人、オレはため息交じりにつぶやいた。


「シツレーしやーす!」
 その部屋に入った瞬間、オレは一瞬で目を奪われてしまう。赤い着物を身にまとい、真っ白な髪を携え、この世のものとは思えないほど可愛らしい容姿を持つ、一人の女の子に・・・・・・。
 女の子?
 いや、あまりにも作り物めいたその姿は、まるで人形のようだった。
「お紅さま・・・・・・」
 お紅さまは大きな竹椅子に座って背をもたれていた。ほとんど動くことなく、窓の外へと顔を向けている。オレは近寄ってしゃがみ込む。
 そして、お紅さまの顔をのぞき込んだ。その瞳は虚ろだ。しかし、オレの姿を視界に捉えたのか、わずかに笑みを浮かべる。
「・・・・・・キンパチ?」
 オレは思わず叫びそうになった。
「・・・・・・ネズの野郎なんかじゃないっすよ。さあ、オレの家に行くっすよ、お紅さま」
 オレは恐る恐るお紅さまの手を取ると、お紅さまは少しだけ身を震わせ、その瞳にわずかな光が灯り、ゆっくりとした動きでオレを見た。・・・・・・いや、オレを見たというよりも、視線を動かしたに過ぎない。
 その瞳は、かつての輝きは無くなってしまっている。濁ってしまっている。それでも・・・・・・やっぱり美しい。
 あの時・・・・・・はじめて見た時から、きっとオレはこいつに心を奪われていたんだと思う。

 吸い込まれそうなほど黒々とした美しい長髪、まるで子猫のように愛らしい声、白磁かと見まがうほどの白い肌、芸術品のように均整のとれた身体・・・・・・一部は非常に飛び出ているが・・・・・・そして、うるんだように輝く大きな瞳・・・・・・ころころと変わる表情、拗ねた顔、無邪気に笑って、想い人をまっすぐに見つめるそのまなざし。
 オレは、その全てが好きだったのかもしれない。

 お紅さまの黒かった長い髪は、儀式を何度も執り行ったせいで真っ白になってしまっている。儀式は、村に絶大な恩恵を与えるかわりに、こいつの身体へ途轍もない負担を強いるのだ・・・・・・生命力に満ち溢れていた漆黒の髪が、見る影もないくらいに真っ白にしてしまうほどの。
 それでも、それはまっさらな絹の糸のようで、どこか七色に輝いているようにも見えた。触れてみれば、手ですいてみるとさらさらと音が聞こえてきそうなほど細やかで、何ともいえない手触りが気持ち良く、いつまでも触れていたくなる。
 お紅さまが気持ちよさそうに目を細めたのを見て、オレは胸が高鳴るのを自覚する。意識は朧に、髪は漆黒から白亜へと。出会った時と変わり果てた姿であったとしても、やっぱり、オレはこいつのことが・・・・・・。
「失礼いたします。猿飛様、お紅さまお付の世話役たちの処遇なのですが・・・・・・」
「うるせえな!」
 突然の闖入者に、オレは怒鳴りつける。
「・・・・・・気がきかねえなぁ、大事な感動の再会シーンの最中なんだからさあ。出て行けよ、なあ。召使ごときが、目障りなんだよ!」
「は、はい。申し訳ございませんでした!」
 召使いはあわてて出て行った。邪魔しやがって。
 オレは舌打ちをすると改めてお紅さまに顔を向けた。急に大きな声を出したせいか、お紅さまの表情はこわばっているように見えた。オレはなるべく優しげな笑顔になるよう心がけて言った。
「さ、立ってほしいっすお紅さま。お引越しっす。お紅さまはついにオレのものになったんすから、同棲ってやつっす。昔のあんたは汚物に向けるような目でオレを見ていたけど、本当は照れくさかっただけなんすよね? わかってるんすよ、オレには。好きな相手には素直になれないって相場が決まってるっす!」
「・・・・・・」
 それは、どう考えても・・・・・・オレの事だ。
 お紅さまは立ち上がろうとするが、最近は足腰が弱っているようで、立ち上がろうとするその姿は見ているこっちが不安になるくらい弱々しい。
「もうすぐで立てなくなるかもしれませんねぇ」
 若様の言葉を思い出す。うるせえな、誰のせいだと思っているんだ!!
 オレはお紅さまの背中に手を添えてやりながら、手をゆっくりと引っ張ってやる。と、無事立ち上がる事ができたので、オレはほっと息を吐いた。
「・・・・・・ありがとう、キンパチ」
「・・・・・・さっきも言ったけどオレはそんなダッセー名前じゃないっすから。オレはFMS・・・・・・モリヤっす、モーリーヤー」
「・・・・・・?」
「小首傾げやがって、可愛いなぁ・・・・・・くそ」
 オレはお紅さまの手をしっかりと握り締めて歩き出した。
 今更ながら気が付く。その手が、驚くほど冷たいということに。

 今思うと、オレはなんて子供っぽかったのだろうと思う。お紅さまに対していやらしい言葉を使ってからかったり、無理やり身体を触ったり、ドスを聞かせた声で威圧して怯えさせたり・・・・・・それはまるで、気を引きたいがために好きな女の子に意地悪する糞ガキそのものだ。
 そんな大人の皮をかぶった糞ガキみたいなヤツに、村の権威を笠に着て威張り散らすようなヤツに、お紅さまが振り向いてくれるとオレは本当に思っていたのだろうか。
「着いたっすよお紅さま。ここがオレたちの愛の巣っす。愛の巣って死語っすかね? うひゃひゃ!」
「・・・・・・ん」

 どうしても、こいつにオレを見てほしかったのだ。ネズの方ばかり見ているこいつに、オレの方に振り向いて欲しかった。そして、オレはどうしてもこいつを手に入れたかった。
 だから、ネズを消そうとした・・・・・・オレの手で。
 だけどそれは失敗した。こいつが、ネズをかばったからだ。その時のことは、頭にずっとこびり付いている。
 こいつは、本気でネズの野郎のことが好きなのだとわかって、オレの心は怒り荒れ狂い、そして・・・・・・あふれんばかりの悲しみで打ちひしがれた。・・・・・・ヤケクソになってやったお紅さまへの行為を、若様に見咎められて重い罰を与えられてしまうほどに。
 お紅さまのために空けた部屋へ向かいながら、オレは自虐的に笑った。
「・・・・・・ホント、すんげー恐ろしい目にあわされるってわかってたのに、オレってば若様の前でよくあんな暴走したもんっすよね。オレは未だに覚えてるっすよ、お紅さまの胸の大きさと吸い付くような柔らかさを。うひゃひゃ! ・・・・・・はあ」
「・・・・・・」

 その後、ネズはナガムシ様によって殺され、こいつは晴れて「お紅さま」としてのお役目を果たす事となった・・・・・・・ナガムシ様によって心を壊された哀れな姿で。
 オレは、ナガムシ様を憎んだ。ナガムシ様がこいつの心を壊してしまったせいで、こいつの心の中には、ネズの居場所しかなくなってしまったのだから。ネズが死んだ今も、ネズしか見えなくなってしまったのだから。
 ・・・・・・いや、諦めるのはまだ早い。一緒に暮らしていれば、いつかオレのことを認識してくれるはずだ。オレの事を想ってくれるはずだ。
「だから・・・・・・お紅さま」
 オレたちはお紅さまのために用意しておいた部屋に入った。襖を開ければ、オレんちの広い中庭が見える。日当たりの良い、縁側のある和室だ。
 オレはお紅さまの両肩を抱き、まっすぐに見つめた。
「オレは・・・・・・」
「・・・・・・?」
 すると、お紅さまもオレを見つめてくる・・・・・・・焦点の定まらぬ瞳で。その瞳は、きっと、オレを見てはいないのだろう。
「・・・・・・へっ」
 オレは可笑しくなってお紅さまから両手を離し、顔をそらした。こんな風に正面から見つめるなんてオレらしくもない。そんな天然純情熱血野郎はネズだけで充分だ。
「・・・・・・そういえば、もうお紅さまじゃないんすよね、ノヴシゲさん。元男とはいえ、あんたみたいな姿のヤツをノヴシゲさんって男の名前で呼ぶのはやっぱ違和感バリバリっす。だけど、あんたはもうお紅さまじゃないんだ。だったら、ノヴシゲさんって呼ぶべきっすよね」
 オレはおどけて大げさな身振り手振りで頭を下げる。
「ようこそ、我が家へ! ノヴシゲさん。オレに任せてもらえれば、毎日を楽しく過ごせますんで、大いに期待しちゃってくださいっす!!」
「・・・・・・」
 その時、ノヴシゲさんが少しだけ笑ってくれたように思えたのは、気のせいだったのだろうか。
「そうと決まったら・・・・・・その服は脱いじゃいましょうか、ノヴシゲさん! あんたはもうお紅さまじゃないんすから、そんな辛気臭い着物を着てる理由なんてないっしょ、うへへ!! って、キャラが違うだろってか? あひゃひゃ!」
「・・・・・・」
「・・・・・・はあ、ノリ突っ込みってのも虚しいもんすね、ノヴシゲさん」
 と言いつつオレはぼうっと突っ立っているノヴシゲさんの着物の帯をほどきにかかる。嫌なのだ。この着物を見ていると、怒りがこみ上げて来て仕方がない。どうしても若様の影がちらついてしまう。だから脱がす!
「変わりの服はもう用意してあるんすよ。いやあ、ノヴシゲさんには何を着せても似合いそうなんで、服を選ぶのが楽しくて仕方がなかったっす。なんかこう、もっと胸が強調されるような小さめのシャツとか着せてみたかったんすよね」
 まるで抵抗するそぶりを見せないノヴシゲさんに寂しさを覚えながら、オレは一人でしゃべり続ける。
 帯がほどける。赤い着物を素早く取り去ると、ノヴシゲさんは白い襦袢姿になる。生地が薄いので、肌が少しだけ透けていた。着物的にはこれが下着に当たるらしいが、オレにはそうは見えない形をしている。
「さあ、あとはこの紐を解いちゃえば裸になっちゃうっすよ~。いいんすかぁ? 抵抗しないと、オレは容赦なくひん剥いちゃう男っすよ? ま、抵抗してもひん剥いちゃうんすけどね、うひゃひゃ!」
「・・・・・・」
 それでもノヴシゲさんは何も言わないし、立ったままちっとも動こうとしない。さすがのオレもムッとして、本気で脱がしにかかる。
「ここんとこの紐を解けば~っと! そうすればほら、襟がはだけ・・・て・・・・・・」
 オレは息が止まる。視界が揺れる。目の前に、あれほど恋い焦がれていた、素晴らしく均整のとれた肢体がある。着物を内側から押し上げていた大きな胸は想像以上の美しく、まるで芸術品のようで、オレは瞬きをすることさえ忘れて食い入るように見つめてしまう。だけど・・・・・・。
 だけど・・・・・・なんで・・・・・・。
「なんでこんなに・・・・・・あざがあるんだよ!?」
 窓から入る夕日に照らされた白い肌、その絹のように滑らかな肌を穢しているかのように、青い大きなあざが身体の所々に出来ていた。
 信じられなかった。握りしめたこぶしがぶるぶると震える。耳元でギリっという音がする。それは、オレが歯を食いしばった音だとすぐに気が付く。
「ふざけんなよ・・・・・・! 若様・・・・・・・!!」
 オレは、すぐ近くにいたのに、あの野郎に・・・・・・こんなふうに扱われて・・・・・・!!
 オレは震える手で、おそるおそるあざに触れる。くすぐったいようで、ノヴシゲさんは身をよじりながら無邪気にも笑みを浮かべた。
 それが悲しくて、オレは気が付いたらノヴシゲさんの身体を思い切り抱きしめていた。はじめて抱きしめたノヴシゲさんの身体は、想像以上に小さくて、柔らかくて・・・・・・冷たかった。オレは両手の力を強めて・・・・・・嗚咽が漏れそうになるのを、泣いてしまいそうになるのを懸命にこらえる。好きな女の前で泣くなんて、オレらしくない。
 ・・・・・・ふとオレの背中を包み込むように、何かが触れた。それは、ノヴシゲさんの両手だった。そして、ノヴシゲさんは優しく微笑みながら、その小振りな唇を開いた。
「大丈夫、大丈夫だから・・・・・・泣かないで」
「・・・・・・っ!!」
 オレは堪えることが出来ずに、ノヴシゲさんをゆっくりと押し倒した。ノヴシゲさんの白い髪が、畳の上に大きく広がった。
触れ合っているところから、ノヴシゲさんの鼓動が伝わってくる。始めは微弱にしか伝わって来なかった脈動も、こうしているうちにだんだんと速く強く熱くなっていくのを感じた。ノヴシゲさんの頬が、ほのかに朱く染まっていく。それはきっと夕日のせいなんかじゃない。
「キンパチ・・・・・・うれしい」
「だからっ! ・・・・・・モリヤだって」
「・・・・・・?」
 言わせたくない!
ノヴシゲさんのその口から、またあいつの名前が出てきそうだったから・・・・・・オレは唇を塞いだ。こいつが、オレだけを見てくれていることを祈りながら。
 オレたちの初めてのキスは、甘くも儚く、悲しい苦い味がした。


 ノヴシゲさんの部屋でオレたちは朝食をとっていた。
 和テーブルをはさんでオレたちは向かい合っている。ノヴシゲさんは手元を見ながら、ゆっくり、もぐもぐと飯を食っている。相変わらず無表情だが、ほんわかとしてそこはかとなく幸せそうに見える。可愛い。例のクソッタレな着物じゃなくて、今日は黒いワンピースを着せているからか余計に可愛い。白と黒のモノクロームな対比が素晴らしい。
「ノヴシゲさんって、食べるの本当に好きっすよね」
「・・・・・・?」
 オレの言葉に反応して、ノヴシゲさんがこっちに顔を向ける。オレは思わず顔を逸らしてしまった。昨日の今日だから、ノヴシゲさんの顏を見るのは少しだけ恥ずかしい。・・・・・・クソッ、オレは初心な中学生かっての!
 昨日と言えば、ノヴシゲさんの身体に残るあざのこと。若様の話では、ノヴシゲさんはナガムシ様の力で半分は神のようになっているから、少しくらいの怪我ならすぐに治ってしまう、とのことだった。
 思い出したくもないが、オレがノヴシゲさんの頭につけてしまった傷は、普通の人間ではありえないくらいの速度で跡形もなく消え去ったので、その言葉に嘘はないと思う。
 いつ頃ついたあざなのかはわからないが、今日の朝もあざは残っていた。あの時の頭の傷の治る早さを考えれば、未だにあざが消えていないのは絶対におかしい。
「う・・・・・・」
 ドクリと心臓が大きく波打って、酷く嫌な予感が頭をよぎる。確かあの時、若様は・・・・・・。
「・・・・・・おいしい」
 オレはハッとして、声に導かれるようにして顔を上げた。そこには、変わらずもぐもぐとのんきに飯を食べ続けているノヴシゲさんのお姿。飯で頬を膨らませているその様子はまるで小動物のようにも見える。オレはため息をつくと、ティッシュを手に取った。
「そりゃうまいはずっすよ。なにしろうまい仕出し弁当を出す評判の良い店の板前を、わざわざ引き抜いてオレんちの料理人に据えたんすから。これで不味かったらあの料理人をオレの手で半殺しにしてるところっす! ・・・・・・ほら、口元に醤油っぽいのがついてるっすよ」
 オレは手を伸ばしてノヴシゲさんの口元を拭いてやる。オレがそうしている間、ノヴシゲさんはじっとしていた。たく、子供かっつーの。
「よし、綺麗になったっす」
 オレがそう言って笑うと、ノヴシゲさんも少しだけ微笑んでくれた。
「・・・・・・ありがとう、キンパチ」
 オレはガクッと首を落とす。が、すぐに頭を上げて言い返す。
「だーかーらー、モリヤですって。モリヤ。もしかして・・・・・・覚える気、ないっすか? って、あーあー・・・・・・テーブルの上にもぽろぽろこぼしてるじゃないっすか。まったく・・・・・・」
 オレは腰を浮かしてテーブルの上を布巾で拭き始める。飯粒に、漬物の人参の切れ端、焼き魚の小骨と身、納豆の粒など、ため息をつきたくなるほどのこぼれ具合だった。オレは律儀にもそれら一つ一つを拭き取っていった。
 よく考えたら、ここまでしなくても、あとで召使いに片づけさせりゃ良いだけなんだよなあ・・・・・・。
 ノヴシゲさんは、そんなオレを気にすることなく、ずずずっと、音を立てて味噌汁をすすっていた。クッソ、やっぱ可愛い。
「・・・・・・ま、いっか」
 オレは座り直すと、苦笑いしてノヴシゲさんを見つめた。そうしていると、今までに経験したことがないくらいに、胸の奥が暖かくなっていった。
 オレはニヤニヤしながら、ずっとその心地よさに浸り続けたのだった。


「さあ、ノヴシゲさん。散歩行くっすよ、散歩!!」
「・・・・・・?」
 オレが急に声を張り上げたせいか、ノヴシゲさんはキョトンとして緩やかにオレの方を向いてくる。わざわざテンションを上げてやってんのに、そう反応が悪いとまるでオレがバカみたいじゃないか。
 オレは縁側に座っているノヴシゲさんの腕をむんずと掴むと、無理やり立たせて玄関に向かう。その途中、ノヴシゲさんにコートを羽織らせた。外はもうすぐで冬本番、ちょっとした拍子に雪が降ってきても違和感がない程度には寒い。
「オレ、本当は寒いの苦手なんすよね・・・・・・」
 靴を履かせて、オレも靴を履いて外に出る。ヒンヤリとして澄んだ空気が、オレの鼻腔を通り抜ける。漏れ出た吐息がいっぺんに白くなって空気中に霧散する。都会と違って車が近くをほとんど走っていないせいで空気は澄み渡っているが、その分冷気が確実にオレたちの身体を凍てつかせる。きっと、散歩するには冷え込みすぎている。
 それでも、なんとなく重い足取りのノヴシゲさんを引っ張ってオレは歩いていく。ノヴシゲさんのこんな姿を見ていたら、歩かずにはいられない。
「そんなよちよち歩きだなんて、足腰が弱ってる証拠っす! もっと足を鍛えないとそのうち歩けなくなっちゃうっすよ! 今のままじゃ、髪も白いし、まるでおばあちゃんみたいっす! うひゃひゃ!!」
「・・・・・・」
 ちくりと胸が痛む。
 自分で言っておいてアレだが、実はシャレにならないことのような・・・・・・。
「・・・・・・だから。だから、これからは毎日散歩行くっすよ。えっ!? 一人で散歩するのは寂しいっすか? そこまで言うなら、しょうがねーからオレが付き合ってやってもいいっすよ」
「・・・・・・さむい」
「・・・・・・オレの台詞のことじゃないっすよね? てかノヴシゲさんって体温低いっすもんね。またオレが今日の夜にでも、いくらでも温めてあげるっすよ! いやあ、アツい夜でしたね、うひゃひゃ!!」
「・・・・・・」
 オレの下品な冗談を聞いても、ノヴシゲさんはやはり人形のように表情を変えない。普段のそんな姿からは想像できないほど、昨日の夜のノヴシゲさんは激しく求めてきたことを思い出す。 オレは正直驚いてしまった。あれほど淫らに乱れるとは思ってもみなかった。
 ・・・・・・若様に仕込まれたのだろうか。
 などと考えると、じりじりと胸の内を磨り潰されるような苦しみと悔しさが渦巻いて息が詰まる。顔の表皮が憎悪に呑み込まれて醜く歪んでいく。
 そして、行為中、ことさら妖艶に、甘くよがるような声で、何度も何度も、キンパチ、キンパチとつぶやくノヴシゲさんを見て、オレは自らの行為の虚しさを感じずにはいられなかった。
 若様がオレをあざ笑う声が聞こえる。
(その女は、わたくしが全てを知り尽くし、味わい尽くした、いわば食べカスのようなものです。だから言ったじゃないですか。あんなモノで、本当に良いのですかと・・・・・・ククク)
「・・・・・・いたい」
「あっ、す、すんやせん・・・・・・」
 知らず知らずのうちに手に力が入っていて、ノヴシゲさんの小さな手を強く握りしめてしまっていたようだった。急いで開放してノヴシゲさんの手を確認すると、少しだけ赤くなっていた。
 オレはノヴシゲさんの手を両手で挟み込んでスリスリと擦り合せる。オレ様のありがたい吐息を合わせるのも忘れない。こうすれば、痛みが和らいで少しは暖かくなるはず。
「・・・・・・あったかい、キンパチ」
「・・・・・・はぁ、モリヤなんですけど。よかったっすね、ノヴシゲさん」
 よし、赤くなくなったし、もう大丈夫だろう。
 ちょうどいい位置にあったので、オレはノヴシゲさんの頭をなでてやる。ノヴシゲさんは猫みたいに目を細めて気持ちよさそうに表情を緩ませた。ほっこりと長く息をはいている。可愛い。
 そういえば、ネズの野郎もよくノヴシゲさんの頭を・・・・・・。
「・・・・・・さあ、行くっすよノヴシゲさん」
 オレは撫でるのをやめてノヴシゲさんの手を掴んで歩き出す。もう二度と頭なんて撫でてやらねえ!
 それにしてもこの村は坂が多すぎる。隣の山にある寺に行く信者の為の宿場町だかなんだかしらないけど、こんな車もろくに入れないような辺鄙なところによく村を作ったもんだ。おかげで少し歩くのもダルいじゃないか。
「こんなところに人が集まるはずがないんすから、衰退するのは当然っすよね、ノヴシゲさん。それを胡散臭い神様に頼って無理やりに繁栄させようだなんていう根性が腐りきってるっす。本当に、こんな村なんて・・・・・・」
「こんにちは、猿飛様。お散歩ですか?」
 その声で振り向くと、そこには和服を着た年増女とガキの二人組が立っていた。めんどくせえヤツに見つかっちまった。オレは舌打ちをすると、ノヴシゲさんをオレの身体の影に隠しつつ言い放つ。
「あ? だからどうしたよ。オメーには関係ねーべ」
「うふふ、そのような言い方をせずともよいではありませんか。それと、大声でそのような悪口を言うものではないですよ、猿飛様。若様のお耳に入ったら大変です」
「うっせーな。てか暗にチクんぞっつってんのか? あ?」
「まさか! そんなつもりはありませんよ。ただ・・・・・・若様が癇癪を起こされると手が付けられなくなるもので。ちょっとした老婆心のつもりなのですけどね」
 余計なお世話だっつの。ああもうめんどくせえな。オレは年増(とガキ)を無視してこの場からさっさと逃げ出すことにした。
「それにしても猿飛様がお散歩とは珍しいですね・・・・・・あら?」
 が、年増女はノヴシゲさんの姿を目ざとく見つけてくる。その瞬間、年増女は絶句し、朗らかに笑っていた表情がたちまち曇り、まるでこいつに同情するかのような悲痛な面持ちとなる。
オレは、叫ばずにはいられなかった。
「・・・・・・良い人ぶってんじゃねえよ、クソババア! てめえは若様のやってる事見て見ぬ振りして、間接的に、いや、あの着物着せたりして悪事に直接加担してたくせに、こいつを憐れむような顔をしてんじゃねえよ偽善者がっ!! てめえにそんな顔する資格なんてねえんだよ、バァーカ!! 反吐が出んだよ!!」
「っ!! さ、猿飛様・・・・・・」
 オレは思いのままに言葉をぶつけると、ノヴシゲさんを抱きかかえて速攻でダッシュした。クソババアは更に悲しみの色を濃くして、それがまたオレを腹立たせる。
「じゃあなクソババア! ついてくんなよクソババア!!」
あんなクソババアが近くにいたら、せっかくの二人の甘い時間が台無しだ。オレは必死に走り続けた。
「はあ・・・・・・はあ・・・・・・」
 苦しくて息が詰まる。足がジンジンしてくる。オレの腕の中のノヴシゲさんはおとなしくしていてくれた。それが救いだった。だけど、思っていた以上にその身体は軽すぎて、まるで紙のように、雪のように、誰の手も届かないところへ飛んでいってしまいそうに思えて、オレは悲しくなった。
「はあ、ゴホッ!! ゲェ!! ・・・・・・ここまで来りゃあ、大丈夫だろ」
 オレはノヴシゲさんを慎重に降ろして、吐きそうなのを我慢して微笑みかけた。ノヴシゲさんはいつもと同じ・・・・・・いや、オレの心を見透かすように、色のない目で見つめてくる。
そう、ノヴシゲさんはわかっていたのだろう。オレもクソだってことを。
 何が悲しくなった・・・・・・だ。なにを同情しちゃってんだよ。オレだってあのクソババアと何ら変わりないじゃないか。
 オレは若様の計画にノリノリで乗っかって、こいつがナガムシ様の生け贄になるよう協力した! しかも、この手でこいつをぶん殴って・・・・・・それを踏まえればあのクソババアなんかよりもオレの方がずっと罪が重い。
「ははは、ノヴシゲさんが軽くて助かったっすよ。それにしても素晴らしい抱き心地っした! ホント癖になりそうっす! ホント今夜もまた抱いちゃおっかな? うひゃひゃ!!」
「・・・・・・」
 本当はこうやって、こいつにオレが笑いかけてやる資格なんてないんだ・・・・・・!
「さ、さあノヴシゲさん。帰るっすよ。そろそろ帰らないと日が暮れちゃいますからね。そうなったら寒すぎてさすがに散歩どころじゃないっすから」
 オレはノヴシゲさんの顔を見ていられず、手も引かずに一人で歩き出す。ある程度歩いたところで、ノヴシゲさんがちゃんと付いてきているかどうか確認するために振り向いた。
 しかしノヴシゲさんは先ほど地面に降ろした位置から全く動いておらず、オレを見ずにどこか見当違いの方向を見ていた。オレはため息をつくと、ノヴシゲさんの元へと戻り始める。
「駄目じゃないっすかノヴシゲさん、ちゃんと付いてこないと。迷子になっちゃうっすよ?」
 オレが声をかけてもノヴシゲさんはピクリともせず、突っ立ったまま同じ方角を見続けている。オレは、何故か胸が騒いだ。何かあるのかと思い、オレはノヴシゲさんに並び立って同じ方角を眺めた。
「・・・・・・あれは」
 黒く焼き焦げた物体。屋根は崩れ落ち、壁がほとんどなくなり、むき出しになったいくつもの黒ずんだ柱が虚しく立っていた。それはかつて炎に蹂躙されたのだ。そして裏切り者の末路として目せしめのために放置され続けている、一軒の家。
 ノヴシゲさんは何も言わず、ただそれを見つめている・・・・・・。
「駄目っす、ノヴシゲさんっ!!」
 オレはノヴシゲさんを抱き上げると、またしても逃げ出した。
 逃げる、逃げてばかりだ。さっきのクソババアからも、自分自身の罪からも、若様からも、ノヴシゲさんの身体の状態についても、何もかもから逃げ続けている。あれがあの野郎の家だったなんて、わかるはずがないと思いながらも、現実にオレはあそこから逃げ出してしまったのだ。
 オレの両腕から伝わるノヴシゲさんの体温は冷たい。その身体は、羽のように軽い。オレはノヴシゲさんがオレの元から消え去ってしまわないように、力の限り抱きしめた。
「・・・・・・雨?」
 オレの頬に触れる一つの雫。空を仰ぎ見ても雲一つなく、沈みかけた太陽が人も空も大地も赤く染め上げている。
「・・・・・・キ、ンパチ・・・・・・どこ?」
 オレは、その雫がどこから生まれたのか、それを考えることすら逃げ出して・・・・・・赤い、あの儀式を象徴するような色から逃れたくて、ただただ懸命に走り続けた。

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